目次
凡例
はじめに
I 鬼と鉄
一 十腰内の地名伝説――おにの刀鍛冶
二 東北の鬼
三 南宮大社の掛本尊――鍛冶を手伝う鬼
II 鬼子
一 茨木童子誕生
(1)床屋に拾われた童子
(2)近世の語り――役方と髪結
二 鬼と血
(1)血を“なめて”
(2)茨木童子貌見橋
(3)祟る櫛塚
(4)源頼光の蜘蛛塚
三 酒呑童子・伊吹童子・弁慶も鬼子
(1)酒呑童子
(2)伊吹童子
(3)弁慶
四 鬼子の指標――童形
III 平安王朝の鬼
一 人間臭を放つ鬼
二 渡辺綱と茨木童子
(1)堀河一条戻橋
(2)水神・渡辺綱
・カマドに住む河童
・カマド神の起源譚
・カッパは兵主神と同じく金属神
(3)羅城門
三 頼光、金太郎は産鉄族
(1)鉱山師・頼光
(2)金太郎誕生
・足柄山の出会い
・山姥に育てられた童形の金太郎
・近江の坂田郡
IV なぜ“茨木”か
一 新潟県の茨木童子
(1)茨木姓の多い誕生地
(2)鬼伝説と鉱山
(3)古志郡の「コシ」――アイヌ語由来説
(4)再び軽井沢へ
・「生得の恩」に報じる童子
・茨木市の童子
二 弥彦の弥三郎婆
(1)狼の産見舞
(2)炭焼長者伝説
(3)弥彦の神さま
(4)越後国
(5)物部氏の越後開拓経営
V 古代の三島地方
一 “イバラキ”は産鉄・金工にかかわる名か
二 神社と寺院
(1)佐和良義神社
(2)佐奈部神社
(3)新屋坐天照御魂神社
(4)真龍寺
(5)事平神社
三 紫金山古墳
四 氏族
(1)穂積氏
・物部氏の東遷と三島
・穂積氏の素姓
(2)三宅連
・井於神社
・天日槍と鉄
・天日槍の足跡
・出石神社
・袴狭遺跡――準構造船
・入佐山三号墳――浜砂鉄
(3)カモ族の丹塗矢伝承
・溝咋耳命
・神名は踏鞴とかかわるか
・鴨族と事代主神
・三島鴨神社
・ヒメタタラの舞台は大和へ
・狭井の地
・一宿御寝
・一夜孕みのモチーフはタタラ操業の一代にあたる
(4)神日本磐余彦尊の謎
VI なぜ“イバラキ”か
一 茨木市の地名由来
二 『常陸国風土記』
(1)「イバラキ」の地名起源
(2)大麻呂の拠る柵――茨の城
三 イブキとイバラキ
(1)伊吹の先住民説
(2)別相神社――俘囚移配の地
(3)伊吹ねふ地帯
(4)高師小僧
(5)竹田神社――天目一箇神
・隻眼――なぜ鍛冶の神は一つ目であるか
・鬼伝説と片目の神
四 一踏鞴の伝承――熊野
VII 別所と銅鐸
一 吹田市山田別所
(1)俘囚の移配地と産鉄地
(2)山田別所と東奈良遺跡
(3)東奈良の青銅器製作集団
・東奈良遺跡の小銅鐸
・東奈良の工人、東海に移住か
・鋳造工人はどのような人々か
・東奈良は物部氏東遷の地か
・銅鐸鋳造の原料
二 高槻市の別所
(1)磐手杜神社(安満神社)
(2)海人族
(3)磯良神社(疣水さん)
(4)蹴裂伝承をもつ安曇氏
(5)芥川の「鬼一口」
(6)安満宮山古墳
(7)阿久刀神社
VIII 安威の地
一 阿為神社
(1)中臣氏
(2)天児屋根命と春日大社
(3)建甕槌命
・出雲の国譲り
・鹿島神宮
・鹿島神の分社
・タケミカヅチの来歴
(4)鎌足誕生地――常陸国鹿島説
二 常陸国のオオ氏
(1)茨城国造と茨木国造
(2)常陸国の茨城国造
三 太田の地
(1)太田の地名由来
(2)太田神社
(3)オオタタネコ諸説
(4)呉の勝
(5)勝部氏
(6)中臣太田連と太田
(7)まとめ
おわりに
《おもな引用・参考文献》
前書きなど
はじめに
鬼は隠れてなかなか姿を見せない。
私が小学生であった頃、夏の夕涼みに床几に腰かけて、年長の子から鬼の話――茨木童子の話をよく聞かされた。
「生まれてすぐ這いだし、髪もくろぐろと生えていたんや。おどろいた母親はそれを見てびっくりして死んでしもうた。村の人は鬼子やいうて怖がったんで、父親は床屋の前に捨て子したんや」。「床屋に拾われて成長した童子は」「客の頬を切っては血をなめ」「ある日、小川に貌を映したら角が生え、牙が出とった」。「鬼になった茨木童子は竜王山へにげこんで、尾根伝いに大江山に行って、酒呑童子の家来になった」と、手ぶり身ぶりをまぜながら、さも恐ろしげに語ってくれた。
「茨木童子は京の羅城門にすみ、娘をさらい、財宝をかすめ」「人間の血を酒のように飲んで」「肉を食った」と。
童子が捨てられたという茨木川は、子どもの魚取りの川であり、その堤で昆虫取りに興じた場である。まさに生活の一部をなしていた。友だちの家に遊びに行って、夕刻に通る堤は、木が繁り電燈もなくうす暗くて、人通りの途絶えた地獄の一丁目であり、子ども心に投影された茨木の鬼は、おぞましくも恐ろしい妖怪として私に襲いかかり、恐怖を脳裏に刻みこまれた。
それから数十年たった。この間、「鬼と鉄」にかかわる文献にふれ、関連する遺跡や神社・仏閣を各地に訪ねた。今まで見えなかった童子の容貌がぼんやりと見えてきた気がしたが、しかしその姿は闇の中にあった。そんな時に、中学校の文化祭で「茨木童子」を発表するので中学生に講演してほしいとの依頼があった。そこで、今まで考えてもみなかった質問を受けた。
・なぜ茨木市は“イバラキ”という地名なのか。
・なぜ茨木童子は“イバラキ”と呼ばれたのか。
最初の質問は、『常陸国風土記』に記された地名由来から説明できたが、童子の名がなぜ“イバラキ”なのかは予想外で答えに窮した。茨木で生まれた、あるいは茨木村に捨てられたという地名由来だけでは説明しきれない深みをもった“イバラキ”であると考える。なぜなら、童子は新潟の栃尾市(現、長岡市)軽井沢に生まれ、父親の茨木善右衛門の姓をとって“イバラキ”と名乗ったという説がある。しかし、これは父の茨木という姓を名乗ったのであり、地名由来ではない。そこで、軽井沢の茨木姓はどのような性格を負っていたのかが問題となる。軽井沢の茨木童子と大阪茨木市の茨木童子はつながるのか。
次に、それにもまして、兵庫県尼崎市富松で誕生した説であれば、誕生の地“トマツ”童子を名乗ればよいのに、なぜ“イバラキ”村に捨てられ、茨木童子を名乗ったのか。
童子の素顔は、“イバラキ”を解明することからその実像があらわれるのではないか。今回はこの一点に絞って考察した。それには郷土茨木がどのような文化と歴史を有していたのか、鬼と鉄の視点から探ってみた。それが後半の「なぜ“茨木”か」「古代の三島地方」等の章である。
特に、本市と同じ童子誕生の伝承をもつ新潟の鬼、茨木市の地名由来と同じといわれる茨城県、さらには、本市溝咋神社の「丹塗矢」伝承で語る「ホトタタライスズヒメ」と、その子・神八井耳命を祖とする「オオ(多)氏」一族の存在、そして、弥生時代の銅鐸工房発見で一躍有名になった東奈良遺跡、本市南部地域に一大勢力を張った物部一族の「穂積氏」、物部氏が祭祀する福井地区の「新屋坐天照御魂神社」などに注目して話を進めたい。
なぜ“イバラキ”なのかに一歩でも迫ることができれば幸いである。