目次
第1章 スター誕生――アフリカ同時代美術ブームの中で
1.アクパンとの再会
2.アートになった棺桶
◇ハロー家具工房
◇カネ・クウェイ木工所
◇パー・ウィリー・六フィート工芸
◇パー・ジョー木工所
◇ガポヌ木工建具ワークショップ
3.シェリ・サンバ――キンシャサのスーパースター
第2章 一九八九年以後――せめぎあう美術史と文化人類学
1.マウントの分類と一九九〇年代
2.「マジシャン・ドゥ・ラ・テール」展の冒険
3.アメリカからの回答――「アフリカ・エクスプロアーズ」展
4.「セヴン・ストーリー」展の試み
5.「インサイド・ストーリー」展――日本からの声
第3章 一九八九年以前――「闇の奥」のアート
1.ルバキとジラテンドの「発見」
2.フリースクールの時代
◇ルブンバシ派
◇ポトポト派
◇オショボ派
3.フリースクールの神話の構造
第4章 独立の時代――模索するモダン・アート
1.セネガル――幻と現実、あるいはエコール・ド・ダカールとガラス絵
◇ガラス絵という存在
◇三〇年後のエコール・ド・ダカールとガラス絵
2.ヴォウヴォウ――アビジャンのモダニズム
3.ナイジェリア――ザリアの反逆児たち
第5章 グローバル・マーケットに船出するアーティストたち
◇アブラデ・グローヴァー
◇エル・アナツイ
◇スレイマン・ケイタとムスタファ・ディメ
◇アブドゥライ・コナテ
◇ウスマン・ソウ
第6章 語り始めたアフリカ
1.アフリカの外側で
◇ヴェネツィア・ビエンナーレの中のアフリカ
◇「ショート・センチュリー」展と「ドクメンタXI」――オクゥイ・エンウェゾールの活躍
2.アフリカの内側で
◇持続への意志――ダカール・ビエンナーレ
◇ヨハネスブルク・ビエンナーレ――虹のかなたに
◇第二回ヨハネスブルク・ビエンナーレ
◇ナイジェリア、エヌグ――若者たちの挑戦
終章 二一世紀のアフリカ同時代美術――新たな語りの可能性を求めて
◇「アフリカ・リミックス」展とケ・ブランリー美術館の開館
◇複数の視座からの語りは可能か
あとがきにかえて
註記
参考文献
前書きなど
あとがきにかえて
(…前略…)
振り返ってみれば、今年は私が初めてアフリカを訪ねてからちょうど二〇年になる。本書は、この間の同時代のアフリカ美術に関する論考をまとめたものである。そのうち、第1章2節は『民族芸術』vol.21に、また第5章のエル・アナツイに関する部分は「彫刻家エル・アナツイのアフリカ」展の図録に掲載された文章に加筆したものだが、それ以外はほぼ書き下ろしである。今年はそして、多くの方がたのご協力を得て、「彫刻家エル・アナツイのアフリカ」という数年来温めていた巡回展を立ち上げることができた。二〇一〇年は、私にとって生涯忘れられない一年になりそうである。
ただ、それにしても、たかだか一冊の本を書くのに二〇年というのはいかにも長すぎる。また、アナツイ展にしてももっと早く行なうことができたし、そうするべきだったと思う。どちらもまったく私の怠慢のせいである。
九月半ば、展覧会のオープニングの際に来日したアナツイに、私は、もっと早く展覧会を実現できなかったことを率直に詫びた。しかしながら同時に、でも人と人の出会いがひとつの形になるには二〇年ぐらいはかかるのかもしれない、という意味のことを付け加えた。私の言葉をどう受け止めたのかはわからないが、アナツイは静かに頷いてくれた。私と彼がナイジェリアのンスカで初めて出会ったのも二〇年前なのである。たぶん私はどこかで、いつも優しい笑みを絶やさないアナツイに、自分の怠惰への許しを請うていたのかもしれない。
ところで、もともとアフリカには縁もゆかりもなかった私が、なぜアフリカの同時代美術に足を踏み入れることになったのか。これについては、これまでにも何度か訊かれたことがあるし、今後も同じことが予想されるので、この場を借りてその経緯を記し、あわせてその折々にお世話になった方がたにお礼を申し上げたい。
高階秀爾先生と辻惟雄先生の下で美術史学科の修士課程を卒えた私は、一九八五年、東京の世田谷美術館の開設準備室に職を得た。準備室では、翌年の開館を控えて、開館記念展「芸術と素朴」を準備中であった。たまたま私は、その開館記念展のうちの民族美術の部門を担当することになり、おもに国内にあるアフリカやオセアニアの仮面や神像を訪ね歩く機会を与えられた。おりからこの時期、音楽やファッション、料理の分野を中心にいわゆるエスニック・ブームが盛んに喧伝されていた。一方、美術でも一九八四年のニューヨーク近代美術館における「20世紀美術におけるプリミティヴィズム」展が関係者の間で話題を呼んだ直後であった。
そんな中でのアフリカやオセアニアの仮面や神像との出会いは、美術といえば西洋と東洋だと思い込んでいた私にとっては思いのほか新鮮で刺激的であった。ただし、そのころの日本の美術館はまだまだ西洋中心主義的であり、展覧会の大半はフランス、イタリアをはじめとする西洋の美術か、日本や中国の美術に関するものであり、アフリカ美術と口にしてもまともに相手にされるような状況ではなかった。したがって、仕事に絡んでの海外出張といえば大半はヨーロッパ、わけてもパリであり、アフリカに行くなどというのは、おそらく一生ありえないだろうというのが正直な思いであった。
一九八九年、外務省のアフリカ一課が旗を振って「アフリカ・カルチャー・キャンペーン '89」という通年の文化交流事業が全国で行なわれた。私はこの事業の末席に加わったのだが、その際、当時アフリカ一課長を務めておられた清水訓夫氏(のちニカラグア、アルジェリア大使を経て、現在、防衛大学校教授)からお声かけをいただき、私のアフリカ行きは突然実現することになった。国際交流基金の長期研究者派遣のスキームにより、翌一九九〇年の一〇月から一九九一年の三月にかけて赤道アフリカ八ヵ国を調査する運びになったのである。その一端については本文で述べたとおりである。清水大使のご厚意がなかったら、私が本格的にアフリカと向き合うことはなかったであろう。
一九八九年にはもうひとつ、ちょっとした偶然が重なった。この年、私は美術館の仕事として「シャガールのシャガール」展を担当した。この展覧会は、シャガールの没後に遺族が国家に相続税として物納した作品により構成されたもので、作品はどれも、とりあえず一括してパリのポンピドゥ・センターに収められていた。したがって当然のことながら仕事のやりとりの相手はポンピドゥ・センターということになる。世田谷美術館でのオープンは一〇月初旬であったが、開会式に際し、ポンピドゥ・センター・国立近代美術館のジャン=ユベール・マルタン館長が来日してシャガールに関する講演を行なったのである。一九八九年一〇月といえば、かの「マジシャン・ドゥ・ラ・テール」展が閉幕して間もないころであった。同展の噂は、日本でも美術に思いを寄せる人々の間ではけっこう行き渡っていたから、講演後の質疑応答において、「マジシャン・ドゥ・ラ・テール」展についての質問が出るのは自然な流れであった。アフリカの、ことに同時代美術に対する問題意識が私の中で決定的に高まってきたのは、これ以後である。
(…後略…)