目次
本書について
序(日本語版への序・初版への序・第二版への序)
執筆者一覧
キーワード解説
[第I部]
第1章 変動する世界の中で「教えること」とは(ピーター・ジャーヴィス)
第2章 教えること――わざか科学(テクノロジー)か?(ピーター・ジャーヴィス)
第3章 「教えるスタイル」と「教える方法」(ピーター・ジャーヴィス)
第4章 倫理と「教えること」――教える者と教えられる者の関係性の探究(ピーター・ジャーヴィス)
第5章 ラディカル教育学とフェミニスト教育学(ジュリア・プリース、コリン・グリフィン)
[第II部]
第6章 講義/講義すること――「教えこみ主義」を再考する(コリン・グリフィン)
第7章 ソクラテス法(ピーター・ジャーヴィス)
第8章 ファシリテーションとファシリテーターのスタイル(ジョシー・グレゴリー)
第9章 経験的教育の諸原理(ジョシー・グレゴリー)
第10章 「教える」「学ぶ」ことに関わる経験的方法(ポール・トゥズィー)
第11章 実践基盤型学習と課題基盤型学習(PBL)(ピーター・ジャーヴィス)
第12章 メンタリング――「教える」わざ・「学ぶ」わざ(ジル・ニコルス)
第13章 学習コミュニティ――「教えること/学ぶこと」の方法論的な次元とは?(ポール・トゥズィー)
[第III部]
第14章 義務教育以降の教育における評価査定(リンダ・メリックス)
第15章 高等教育における経験的学習の評価査定(ジョシー・グレゴリー)
第16章 放送・遠隔学習による学習者の変容(ピーター・ジャーヴィス)
第17章 「教えること」の専門職化(ピーター・ジャーヴィス)
解題(渡邊洋子・吉田正純)
参考文献
索引
前書きなど
解題
2 本書の構成と概要――「教えること(teaching)」と「教育(education)」のあいだに
イギリスでは「成人学習」概念、日本では生涯学習論の登場以降、日英の教育関係者の間に、学習者中心という発想への根底的な転換が起こったことは疑いをえない。それでは「教えること」はもはや不要となったのか。タイトルでもあるこの「教えること(teaching)」こそ、本書のテーマであるとともに、私たちが訳語にもっとも苦心した言葉である。一般には「学習(learning)」と対になるのは「教育(education)」であって、「教えること」と同じではない。日本語でも「教育」は行為としての「教えること」と、制度としての「教育」の間には、無視できないズレがある。私たちはまず、「教育=教えること」という思い込みを解きほぐす(unlearn)ことが、出発点になる。
これを考える補助線として、戦後長く国語教育にかかわってきた大村はま(一九〇六~二〇〇五)の実践と思考を取り上げたい。大村は「教えない教師」を批判し、「『ほんとうに学ぶこと』を教え、教師である自分を越えていけるような人に育てる」(『教えるということ』ちくま学芸文庫、一九九六年、四八ページ)ことを目標とした。雑誌や広告などを含む多様な教材を用いた「単元学習」は、一般に経験主義教育・生徒中心の実践として知られる。しかしそれは「学習」を放置することとは程遠く、学習者の「問い」を引き出すために、万全の研究・準備と手立てをもって臨むことを意味していた。それはジャーヴィスたちと同様、学習者中心を実現するためにこそ必要な支援としての「教える」ことの復権をめざしていた。イギリスでも日本でも、また学校教育でも社会教育・高等教育でも、管理・評価・会議による「教育」の質向上が強調される反面、学習者と向き合って「教えること」はますます難しくなっている。そのような危機感と問題意識の共有にたって、本書の概要を追ってみたい。
第I部は、現代の変化する社会の中で「教えること」の意味を理論的に探っている。第1章では、学習社会・知識社会の到来によって、学習の計画化・市場化とともに、実践・経験に開かれた知が要請されていることが示される。それにより「教えること」は、教師による一方的な知の伝達であるだけでは、もはや通用しなくなっていることが確認される。第2章では、近代において「教えること」が客体化した「技術(technology)」として成立してきた一方で、教えるスタイルや倫理も含めた「わざ(art)」の側面もあり、そこに教育を人間的プロセスに引き戻す契機があることが指摘される。第3章ではこの「わざ」のうち方法と区別された「教えるスタイル」、すなわち教師の多様な個性やふるまいの重要性に注意を喚起している。第4章では教える者と教えられる者の関係性の「倫理」についてレヴィナスを援用しながら、いかにして学習者と「よそ者」ではない「顔と顔」の関係に入っていけるか考察する。第5章ではラディカルおよびフェミニストのペダゴジーの立場から「教えること」が再検討され、権威的な教え方だけではなく「知の権威」そのものを批判し、学習者の抑圧された「声」をエンパワーするための視点が論じられている。
第II部では「教えること」の新旧様々な方法を、こうした変化の中でどう位置づけなおすかが検討されている。第6章では「講義」という最も「教えこみ的」方法を取り上げ、権威的に知識を伝えるだけの方法としての限界が示される一方で、学習者中心の支援的・対話的な方法となる可能性も示唆している。第7章ではソクラテスの助産術を切り口として、経験知や暗黙知を引き出し、問いを生じさせる上手な「教える」方法が考察される。第8章は参加型学習等で用いられる「ファシリテーション」の「教える」方法としての役割を、学習者のより深い内面を引き出して「自己についての学習」をうながす手法として検討している。第9章・第10章では、「経験的学習/経験をとおして教えること」を主題として、ワークショップ・体験学習からカウンセリング・身体運動までさまざまな手法が取り上げられ、「教えること」を認知面だけではなく感情・精神などを含むホリスティックな面まで拡張している。第11章・第12章は職業訓練や専門職教育に関わる分野で用いられる、実践基盤型学習・課題基盤型学習や、メンタリングの手法が取り上げられ、実践のなかで学習者が経験や感情を「現場の知」として能動的に理解するための「教える」手法としてとらえ直している。また第13章では「学習コミュニティ」が取り上げられ、効果的な学習のために必要な「教える」支援の相互作用的なあり方が、多面的に考察されている。第II部はすべて「学習者中心」の手法をとりあげながら、この学習の能動性や深化を支えるためにこそ「教えること」が見直されるという基調で貫かれている。
第III部では特に焦点となる評価査定(assessment)との関わりで、「教えること」の意味が問い直されている。第14章では義務後教育の評価査定が政策的にも盛んになってきていることを踏まえながら、評価査定を通じて学習者との共同での学習成果をフィードバックするため不可欠であるとされる。第15章では高等教育での評価査定が取り上げられ、学習グループ内での自己評価査定・相互評価査定の有効な活用方法や、そのための「学習契約」の作成等が検討されている。第16章の「放送・遠隔学習」でも、双方向的・対話的な手法が取り入れられることで、「教える」役割が再注目されていることが指摘される。最後の第17章では全体のまとめとして、教育活動のモジュール化・チーム化による分業が進むことに伴って、ますます「教えること」の専門職化が進み、高等教育だけでなく生涯継続教育においても質保証や力量形成が求められつつある背景が分析されている。
以上のように、本書は昔ながらの啓蒙的・権威的な教育に回帰するのではなく、「学習者中心」以降の「教えること」のあり方を、あらゆる面から再検討している。それは学習者が本当に自ら学び考えることを支えていくためにこそ、教育者ならではの「わざ」や能力が必要だという立場だといえる。日本でも生涯学習論の登場以降、「教えること」の専門性は不要で、一般的な「計画」があれば十分とする言説が影響を増してきた。学校教育でも「ゆとり教育批判」以降、(大村はまのいう)「教えること」を放棄した、非対話的な教育方法への回帰が「教育」だと誤認されることが多い。その意味で本書は単なる「お手本」ではなく、むしろイギリスでのサッチャリズム以降の「教えること」放棄へのひとつの抵抗・反撃として読まれるべきであろう。そうすれば私たちの日々の実践において、「教えること」の役割とは何かを考えるヒントが、数多く発見できるはずである。