目次
巻頭言(古田史学の会 代表・水野孝夫)
I 特別掲載
【講演記録】九州王朝論の独創と孤立について(古田武彦)
II 研究論文
生涯最後の実験(古田武彦)
真実の「アイヌ人・アイヌ語」——東北地方にアイヌ語は存在しなかった(佐々木広堂)
よみがえる倭京——観世音寺と水城の証言(古賀達也)
前期難波宮は九州王朝の副都——ホームページ・古賀事務局長の洛中洛外日記より(古賀達也)
「白村江」後の倭の防衛戦略——大宰府羅城の考察(田中敬一)
不破道を塞げ 二——瀬田観音と内裏攻め(秀島哲雄)
太宰府政庁跡遺構の概略(伊東義彰)
「持統紀」はなかった(飯田満麿)
藤原宮と「大化の改新」(正木裕)
「奴」をどう読むか(棟上寅七)
『越智系図』における越智益躬の信憑性——『二中歴』との関連から(八束武夫)
沖ノ島——十七号祭祀遺跡を中心に(伊東義彰)
III 付 録——会則/原稿募集要項/他
古田史学の会・会則
「古田史学の会」全国世話人・地域の会 名簿
第十三集投稿募集要項/古田史学の会 会員募集
編集後記
前書きなど
巻頭言:会員論集・第十二集発刊に当たって(古田史学の会代表・水野孝夫)
「古田史学の会」は一九九四年に発足した会です。十五年目を迎えました。会の目的は会則第二条に記載されています。
本会は、古田武彦氏の研究活動を支援し、旧来の一元通念を否定した氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。
定期的な情報として発行する、会員論集『古代に真実を求めて』はここに第十二集を迎え、会員用のニュース紙として発行する、「古田史学会報」(年六回)は、こちらも九十号を発行しました。古田武彦氏の新しい研究や講演内容もあれば、それに刺激された会員の研究成果などが、絶えず掲載されています。これらの情報の一部はインターネットのホームページ「新・古代学の扉」にも発表されています。古田武彦氏の言説に関心のある方々のご利用をお待ちします。
古田武彦氏は昭和四十七年の著書『「邪馬台国」はなかった』以来、定説を否定する、驚くべき古代史像を世間に提供してこられました。三国志のすべての写本に「邪馬臺国」と書いたものはなく、「邪馬壹(または一)国」であり、後代の文献に「邪馬臺国」とあるからといって、「壹は臺の誤り」とする根拠にはならないとする氏の説は、これを当然とする、われわれの会の原点であります。この目で見てゆくと、後代の学者の考えで原典の文字を勝手に変えた例が歴史資料に多いことに驚かされます。
平成二十年は古田武彦氏の学問にとって画期的なテーマが次々に登場しました。
「漢委奴国王」金印は志賀島からの出土ではないこと。「難波長柄豊碕宮」は大阪ではなく、九州である。青森県・和田家所蔵文書によれば、「天皇記」「国記」は遺存し、その中では「高天原は現・中国の寧波」とされていること。「小野毛人墓誌」「船王後墓誌」などの国史と一致しない内容をもつ金石文を「文献に合わないからおかしい」とする方法論はとれないこと。「飛ぶ鳥」と書くアスカは九州・小郡市である。などです。
古田説では三世紀は「邪馬壹国は九州」「その後身は九州王朝」、つまり「中国の王朝から認められた日本列島の代表者は九州に居た」ので、八世紀初頭に周(唐)の則天皇帝から認められた「日本国」の都は現奈良県・大和ですから、この期間内に政権と都の変遷がなければなりません。これは「九州説」のもつ必然です。
古田氏は八十二歳ながら、本年正月には「小野毛人墓誌」出土地(一四〇メートル)の山に登られるなど、お元気です。ますますの御活躍を願っております。
会員論集は会員のどなたにも、定説にとらわれることなく「真実」を探求した成果を発表する場であります。今後とも活発なご投稿をお願い致します。