目次
日本語版の刊行に際して
ACLU参考双書について
ジョージ・アナス教授の紹介
序文
謝辞
第1章 患者の権利
第2章 患者の権利擁護者
第3章 アメリカの医療改革
第4章 病院
第5章 救急医療
第6章 インフォームド・チョイス
第7章 手術と子どもの治療についての選択
第8章 生殖に関する保健医療
第9章 研究
第10章 医療記録
第11章 プライバシーと秘密保持
第12章 死にゆく人々のケア
第13章 苦しみ、痛み、自殺
第14章 死、臓器提供、解剖
第15章 患者の安全と医療過誤
付録A インターネットの情報源
付録B ヨーロッパ人権および生物学・医学に関する協定
付録C 出産する患者の権利章典
監訳にあたって
翻訳担当者紹介
前書きなど
監訳にあたって——アメリカ医療と『患者の権利』、日本にも「患者の権利」が大切な理由——
ジョージ・アナス教授の『患者の権利』は、患者の権利に関する「標準」書である。原著裏表紙に掲載された推薦の最初の言葉に、「『患者の権利』は患者の権利の聖書」とある。「医事法学の最高権威が記す卓越した本書は、ますます複雑化する医療の非人間的な官僚制度において、あなたが権利を主張するために決定的な助言を提供するであろう。本書は必読の書で、我々の健康と行く末に必要な情熱的で実用的な青書となる」と、推薦の言葉が続く。本書をベッドサイドに置いておくだけで、病院側の態度が異なってくるという。
(…中略…)
史的に患者は医療において弱者であり、自らの権利を主張しなければならないように迫られていた。アメリカも例外でなく、インフォームド・コンセントも自己決定を求める患者の権利運動から裁判の場で確立してきた。患者の権利主張による成果の好例は、セカンド・オピニオン制度である。アメリカでは患者に医師にかかる権利がないため(救急医療以外は)、医師にかかるには手続きに則る必要がある。換言すれば、契約している医療保険会社に決定権がある。登録医に診てもらった後に専門医の診察が必要となった場合、通常は患者は1人の専門医にしか診てもらえない。それは患者の権利の制限であるとして、「他の専門医の意見を聞けるようにせよ」という運動になる。それが、2人目の専門医の意見を聞けるセカンド・オピニオン制度として実を結んだ。患者が声を上げることによって患者の権利を形作ってきたことで、合衆国レベルで1990年の『自己決定法』と2003年の『HIPAA法』などが成立したといえる。それでも、アナス教授によると、患者の権利としてはいまだ不十分な面があるというのがアメリカの実体である。
他方、日本には医師に医師法上の応召義務があり、特別の理由がなければ患者の受診要請を拒否できない。したがって、日本においては、患者には「医師にかかる権利」が認められている。セカンドでも、サードでも、何人の医師に同じ問題を抱えて同時に受診しても制限はない。本書の紹介文に「権利がまれにしか用いられないなら、権利は忘れ去られ、権利の侵害が日常的になるであろう」とあるように、権利は主張し守らなければ自然消滅する。表面的にとはいえ、誰でも自由にかかれるという日本の医療が、医療の供給側・受給側の双方とも患者の権利への取り組みを遅くさせた一要因と思う。「日本は遅れている」と認識されたことはまた、さまざまな問題を引き起こした。例えば、患者を対象とする臨床試験を考えてみる。患者の権利尊重をうたい、患者は保護されなければならないとして、臨床試験に患者を組み入れることを厳禁する病院が多数ある。また、弱者(の権利)を守らなければと称して、(弱者である)学生対象のいかなる研究も禁止する大学がある。さらには、日本では研究と名のつくことは、「倫理委員会の審査を経なければならない」となっているらしい。
しかし、そのようなことの不合理さは明らかである。臨床試験は医科学的・倫理的に慎重な検討を要するが、問答無用の禁止は「患者の選択の自由(参加するかどうかも含めて)」を奪うことになる。学生向けの調査を厳禁しては、教育の効果や改善法などに関する研究も一切できなくなる。いずれも、弱者(患者や学生)の権利尊重という名目であるが、実際には彼らの自律を否定し、彼らを従属物と見下す考えである。医学研究の規制では、日本では既存の生体標本に関してインフォームド・コンセントがとれないので検査は許されないとなるが、アナス教授は本書で(遺伝子検査も含めて)「個人に辿り着ける可能性がないなら研究のためにそれらの標本を使用してもよい」と述べている。倫理委員会の審査では、同じく「通常の教育上の研究、教育上の試験、面談、観察研究、公的データの使用といった研究は施設内審査委員会の審査から外される」と述べているように、質問表調査など人権侵害の可能性がなければ倫理委員会での審査は必要とされない。
(…中略…)
日本に適合する格好の例が、患者本人と家族との関係である。すなわち「患者の情報を家族に説明していいか」について、アメリカが日本文化からそんなに離れた状況にないことがわかる。アナス教授の推奨する患者と家族の姿は、日本文化にそのまま当てはまる。個人を強調しつつ、他方で家族重視というと矛盾のように思われるかもしれない。しかし、私はそうは思わないし、本書を読めば患者の権利の内実と決して矛盾しないことがおわかりになると思う。その例が、教育の場面にもある。「患者はすべてにおいて医学生や研修生を拒否する権利がある」としているが、それが教条的に適応されたら研修医も医学生も学ぶ機会がまったく奪われる。アナス教授は、別項において「患者が医学生、研修生の修練に参加する大切さ」も述べている。すなわち、権利を強調することは、決して本来の患者——家族関係や患者——医学生関係を歪めるものではないことがわかる。ただ、本書の一部分をかじって、その部分のみを強調すると、アナス教授の意図とは異なって教条主義的になってしまう。多分、それが珍妙な日本の姿、例えば「個人情報保護法があるため、救急患者の入院先は教えられない」といったことになったと思う。本書の第11章「プライバシーと秘密保持」をみれば、決してそういう姿は適切ではないことがわかる。医療従事者にとって気になる医療過誤に関しても、結論ともいえる最終章の「患者の安全と医療過誤」において、アナス教授が「インフォームド・コンセントを得ることによる医師—患者関係の強化と、真摯になされた決定の共有は、医療過誤問題の解決に大きな役割を果たすことができる」と結論づけたことは、医療全般における患者の権利と医療の姿をよく物語る。
(…後略…)
2007年11月 谷田 憲俊