目次
はじめに
1 暮らしと社会
第1章 貧困に左右される人生──アムハラ州の女性たち
第2章 土器をつくる女性職人ティラ・マナ──西南部農耕民アリ
第3章 三分化された民族社会──アファル人のケース
第4章 盛大なる死者への弔い──葬儀講の活動
第5章 食文化──テフとエンセーテ
2 文化
第6章 エチオピア正教会──東方オリエントで最大
第7章 新たなるエルサレム──ラリベラの岩窟教会群
第8章 教会堂とその壁面を飾る聖人たち──キリスト教美術
第9章 アズマリ、ラリベロッチ──高原の音楽と踊り
第10章 ゲエズ語──古典エチオピア語
第11章 誰が何のために学校を作るのか?──フォーマル/ノンフォーマル教育
第12章 複数の共同体で学ぶ葛藤──多文化社会のなかで
第13章 ヨーロッパの博物館で冬眠?──エチオピア映画
第14章 民族諸語で描かれる作品群──文学と演劇
3 都市めぐり
第15章 アジス・アベバ──「新しい花」の歴史と現状
第16章 ゴンダール──都市・建築の歩み
第17章 ラリベラ──エチオピアの「聖地」
第18章 ハラール──商都から観光地へ
4 歴史
第19章 人類揺籃の地──「ルーシー」発掘
第20章 生き続ける女王伝説──ソロモン王とシェバの女王
第21章 アフリカ内陸部のキリスト教王国──アクスム王国時代
第22章 東方世界の彼方に──プレスター・ヨハネ伝説
第23章 カッサ・ハイルの下剋上──諸公侯時代の終焉
第24章 「中興の祖」の改革──テオドロス二世の虚像と実像
第25章 「西欧化」と「伝統」の狭間にて──メネリク二世の統治時代
第26章 アドワの戦い──エチオピアの「脱亜入欧」
第27章 異端の皇帝──イヤス・ミハエル・リジ
第28章 ラス・タファリからハイレ・セラシエ一世へ──最後の皇帝
第29章 「東アフリカ帝国構想」に抗して──第二次イタリア−エチオピア戦争
第30章 いつ、どこからやってきたのか?──オロモ人の歴史
第31章 アフリカの年──クーデタ未遂事件
5 政治と社会
第32章 運命は私に荷物を背負わせた──難民問題の真実
第33章 帝政の崩壊──一九七四年の革命
第34章 にせのマルクス・レーニン主義者──軍事独裁体制はいかに確立されたか
第35章 「赤色テロル」と「白色テロル」──めまぐるしい政党の変遷
第36章 DERGの政治スローガン──エチオピア第一主義
6 経済
第37章 紛争と干ばつの狭間で──飢餓の歴史と現実
第38章 独自の作物と生態環境への適応──高地農業
第39章 モカ・コーヒーのお味はいかが?──農業とグローバリゼーション
第40章 大きく変化しつつある援助環境──経済援助
第41章 マルカートのグラゲ商人──商業活動の担い手
7 日本とエチオピア
第42章 二つの国の「出会い」──近世より明治期まで
第43章 結びつく二つの「帝国」──大正期から昭和初期にかけて
第44章 「第二の満洲事変」をめぐって──第二次イタリア−エチオピア戦争
第45章 多様化する日−エ関係──第二次世界大戦後
8 エチオピアと周辺諸国
第46章 海への出口を求めて──エチオピア−エリトリア関係史
第47章 この町は手放さない──エリトリアとの国境紛争
第48章 大ソマリ主義とは何か?──オガデン紛争
第49章 内戦回避のための独立──ジブチの独立とアファル人
第50章 敵対と協調の歴史──エチオピア−スーダン関係
エチオピアを知るためのブックガイド
前書きなど
はじめに
エチオピアは、アフリカ大陸でエジプト、ナイジェリアに次いで第三位の人口があるし、豊かで多様な歴史と文化を八〇以上の民族が織り成している。また、日本との歴史的関係が最も深いアフリカの一国でもある。明治時代に入ってすぐに「越尾比屋」という漢字で登場していたし、イギリスの文豪サミュエル・ジョンソンの著したエチオピアの皇太子を主人公とした作品は一八八五年以降に高等学校の英語テキストになっていた。また、オペラファンには、ジュゼッペ・ヴェルディの歌劇『アイーダ(Aida)』(一八七一年初演)によってエチオピア王国が身近になったであろう。
昭和初期になると、綿製品をはじめとする通商相手としてエチオピアの重要性が認識され、一九二七(昭和二)年に同国と通商条約を締結した。さらに、一九三四年にはエチオピア皇族への日本人花嫁の話題が世間を賑わせ、デパートで“エチオピア雛”までが売られた。ところが、この直後(一九三五年)に勃発したイタリア−エチオピア戦争では、当初エチオピアを支援していたものの、一九三七年にはイタリアが日本の同盟国となり、エチオピアとの友好関係は断絶状態になったのである。
その後、日本のマスコミが報道し、多くの日本国民が抱いたエチオピアへのイメージは、一九六〇年にローマオリンピックで優勝したアベベ・ビキラ以来の“長距離王国”と一九七三年以降の“飢餓の国”というものに代表されてきた。他方で、一九七一年に外務省所管の社団法人「日本エチオピア協会」が設立され、エチオピアとの交流や広報的活動を行ってきた。一九九二年には、本書の執筆者の多くが会員である「日本ナイル・エチオピア学会」が設立され、九七年に京都で開催された国際エチオピア学会の運営の中心となった。
二一世紀に入るとエリトリア独立に代表される民族・国境紛争とともに“世界遺産ブーム”に関連しての観光も注目されているが、ツアー旅行の価格が平均して八日間四〇万円以上ではまだ普及はしていない。それでも、旅行専門誌がエチオピアを取り上げる機会は増加している。また、JICA(ジャイカ:国際協力機構)の月刊誌『クロスロード』にもエチオピア関係の記事が掲載されている。
巻末のブックガイドにも記されているように、本書に先立ってエチオピアに関する入門、概説書が少なからず刊行されてきている。しかしながら、アップ・ツー・デートという点だけでなく、多角的にエチオピアに迫っているという点、いいかえれば、総合性という点において、本書は他の類書を凌駕していると自負している。これは、本書が個人の仕事ではなく、集団の仕事である強みによるものである。
日本のエチオピア研究は、前述の「日本ナイル・エチオピア学会」の活動や会員構成にも反映されているように、人類学が中心である。人類学にも傾向があり、「伝統社会」を伝えるだけのものと、現実の政治社会の動向のなかでの民族社会(「部族社会」)を考察するものとがある。本書の執筆者は、基本的には後者の立場に立っているといえよう。この立場を代表しているエチオピアのマイノリティであるアニュワ人社会の研究者、人口では多数派であるにもかかわらず差別を蒙っているオロモ人社会の研究者には残念ながら執筆いただけなかった。また、映画・演劇と文学の専門家が思い浮かばなかったために、編者がこれらのテーマを執筆せざるを得なかった。
このように改善の余地を残しているが、編集作業も後半に入ってから「エチオピアの輪」は広がりをみせ、ヴィジュアル的にも多彩な内容になった。とりわけ、新進気鋭の執筆者を得られたことは幸いであった。京都大学のアフリカ地域研究センターの関係者にお世話になったし、毎日新聞社の元ヨハネスブルク支局長城島徹氏には原稿の執筆ばかりでなく、ナイロビ在住の写真家中野智明氏を紹介していただいた。(後略)