目次
はじめに 中国鎖国から対外開放へ
第1章 計画経済体制下の対外経済交流
第1節 一九五〇年代 統制貿易の確立と「対ソ一辺倒」の経済交流
第2節 一九六〇年代 「対ソ一辺倒」からの脱却と「文化大革命」中の「鎖国」
第3節 一九七〇年代 対米・対日関係の改善と「洋躍進」
第2章 対外開放政策の展開
第1節 対外開放への政策転換
第2節 多層的開放地区の形成
第3節 WTO加盟と地域経済協力への参加
第3章 貿易の発展と構造変化
第1節 貿易の発展と貿易振興
第2節 貿易構造の変化
第3節 貿易体制改革と市場開放
第4章 外資導入
第1節 対外借款
第2節 直接投資受け入れと外資政策
第3節 直接投資受け入れの構成
第5章 技術導入と技術輸出
第1節 技術導入の推移
第2節 技術導入の構造変化と導入政策の調整
第3節 技術輸出
第6章 対外直接投資.
第1節 一九八〇〜九〇年代における対外直接投資
第2節 「走出去」戦略の提出と対外直接投資の新展開
第3節 中国の対外直接投資の特徴と課題
第7章 対外経済協力
第1節 計画経済時代の対外経済援助
第2節 改革開放以降の対外経済援助
第3節 海外工事請負と労務輸出
第8章 ASEAN・韓国・インドとの経済関係
第1節 ASEANとの経済関係
第2節 韓国との経済関係
第3節 インドとの経済関係
第9章 香港・台湾との経済関係
第1節 香港との経済関係
第2節 台湾との経済関係
第10章 米国・EU・ロシアとの経済関係
第1節 米国との経済関係
第2節 EUとの経済関係
第3節 ロシアとの経済関係
第11章 日本との経済関係
第1節 日本との貿易関係
第2節 日本企業の対中投資
第3節 日本の対中ODA(政府開発援助)
あとがき
主要参考文献
前書きなど
はじめに 中国鎖国から対外開放へ
(一)
古代中国は世界で最も発達した文明と経済力を持つ国の一つで、対外経済交流も盛んに行なっていた。世界史で有名なシルクロード(絹の道)は、二〇〇〇年前の漢武帝の時代(紀元前一四一年〜前八七年)に切り開かれたもので、長安(現在の陜西省西安)から新疆、中央アジアを経由し、地中海東岸に到達するこの通商路を通じて中国産の絹がヨーロッパに運ばれた。
古代中国の全盛期である唐の時代(六一八年〜九〇七年)には、中国は日本、朝鮮、インド、ペルシャ、アラビアなど多くの国々と幅広い経済的・文化的交流を行ない、シルクロードも唐代初期には最盛期を迎えた。唐代半ば以降衰退したが、その代わりに「磁器の道」や「香料の道」とも呼ばれる「海上シルクロード」が栄え、この経路を通じて、中国の物産であるシルクと磁器がヨーロッパに伝えられ、ヨーロッパやインドの香料なども中国に入った。
今から約六〇〇年前の一四〇五年から一四三三年にかけて、明の官僚・鄭和は「大宝船」と名づけられた巨大な船団を率いて七回も大規模な遠洋航海を行ない、東南アジア、インド洋、ペルシャ湾、モルジブ群島を経由し、最も遠いところではアフリカ東海岸のソマリアとケニアにまで到達した。「鄭和下西洋」(鄭和、西洋下り)と呼ばれる鄭和の大航海は、コロンブスの「新大陸発見」より約一〇〇年前の探検航海とされている。
鄭和の大航海より遅く現れたヨーロッパの大航海が残したものは、植民地化と略奪であったのに対して、「中国の遠征の主な目的は、贈り物や外国の使節・首脳の護送を通じて、外国と良好な関係を築くことで、海外で貿易や軍事の施設を作るといった企てを一切持っていなかった」と、『経済統計で見る世界経済二〇〇〇年史』などを著したイギリス人のアンガス・マディソン教授が指摘している。
しかし、鄭和の大航海事業は一四三三年、初出航から二八年にして打ち切りとなり、その後、中国(明)は民間貿易や中国人の海外渡航を禁止した「海禁」政策に戻った。一方、一七世紀から一八世紀にかけて、ヨーロッパの主要な国々は、相次いで資本主義生産方式を確立し、産業革命を起こした。なかでも一七六〇年代に産業革命をスタートさせたイギリスは、「世界の工場」として頭角を現し、ポルトガル、スペインとオランダに次いで東アジアへの地歩を固めようとした。
これに対して、明の後、打ち立てられた清朝は最初から鎖国政策を取り続けていた。一六八五〜一七五八年には広州、●(=さんずいに章)州、寧波は、雲台山など四つの港での限定的通商を認めていたが、一七五九年以降、●(=さんずいに章)州、寧波、雲台山の港を閉鎖し、通商港を広州だけにしてきた。
この鎖国状態を打ち破ったのは、アヘン戦争であった。中国が輸入を禁止する麻薬・アヘンを、英国が武力をもって輸入を強要したことが原因で勃発したこの戦争は、「第一次アヘン戦争」(一八四〇〜一八四二年)と「第二次アヘン戦争」(一八五六〜一八六〇年)の二度にわたって行なわれ、これに敗れた清朝は、英国との間で屈辱的な「南京条約」(一八四二年)と「天津条約」(一八五八年)を締結せざるをえなかった。
英国に続き、日本を含む他の列強も戦争とその他の手段を通じて、中国に一連の不平等条約を押し付け、中国における政治・経済の特権を取得し、中国の通商港湾、税関、対外貿易、交通輸送、財政金融をコントロールするに至った。中国の研究者によると、一九三六年には中国の航空輸送の七割、鉄道輸送距離の九割、工業資本の四割が列強にコントロールされていた(柳随年・呉群敢編『中国社会主義経済略史』)。
新中国(中華人民共和国)建国後、中国指導部は「外国の経済技術の交流を拡大しようと考え、これに若干の資本主義国との貿易関係を発展させ、ひいては合弁など外国資本を導入することも考えたが、しかし当時は条件がなく、中国は封鎖されていた。のちには『四人組』がなにもかも『外国を崇拝し外国に媚びるものだ』、『売国主義だ』といって、中国を世界から隔離したのである」(『トウ小平文選』第二巻)。(トウ=登におおざと)
(二)
マディソン教授の推計によると、一九世紀半ばまでの約二〇〇〇年間、中国は世界のGDP(国内総生産)において一貫して二割強から三割強を占めてきた。一八二〇年時点(清・嘉慶二五年、道光帝即位の前年)でも中国のGDPは世界のGDP全体の三分の一を占め、西欧諸国合計より約六割も多く、日本の一一倍、米国の一八倍もの規模であった。
しかし、一九五〇年代初めには世界のGDP全体に占める中国のシェアは四・五%まで落ち込み、西欧諸国合計の一八%、日本の一・五倍、米国の一七%にまで縮小した。一九七三年には中国のシェアは七・七%に上昇したものの、高度成長を経た日本に及ばず、その六割となった。上記の数字はマディソン教授らが考案した「国際ドル」で計算されたもので、当年の為替レートで計算するなら、改革開放直後の一九八〇年には中国のGDP規模は日本の五分の一しかなかった。
中国経済の衰退をもたらした要因は多方面にわたっているが、その一つに鎖国政策の実行があると、内外の識者は指摘している。「改革開放の総設計師」と呼ばれるトウ小平は、「西洋諸国に産業革命があった後、中国は立ち遅れたが、その重要な一つの原因は門を閉ざして、自分のカラに閉じこもってしまったことだった」「いまはどの国も発展しようとすれば、鎖国政策をとるわけにはいかない。我々はこの点でひどい目に遭ったが、祖先もひどい目に遭っている」との認識を示した(『トウ小平文選』第三巻)。
トウ小平によると、「明朝の成祖の頃、鄭和が西洋へ赴いたのは、まだ開放的といえた。成祖が死ぬと、明朝は次第に没落した。その後、清朝の康煕・乾隆の時代も開放的だったとはいえない。仮に明代の中葉から計算すると、アヘン戦争までの三〇〇余年間は鎖国を続けたことになる。康煕から計算しても二〇〇年近くになる。長期にわたる鎖国政策は中国を立ち遅れた無知蒙昧な国にしてしまった」。
マディソン教授も、「中国の衰退期は、列強の中国への経済的侵入や日本の中国征服の企ての時期と重なっている。両者には明らかにつながりがあるが、中国を衰退させた内部の力も存在した」と指摘した。その「内部の力」とは、「中国はヨーロッパよりも優れた海運・造船等の技術を持っていた一五世紀初頭に、(突然方向転換して)世界経済に背を向けた」(『経済統計で見る世界経済二〇〇〇年史』)という事実にほかならなかった。
(三)
それまでの鎖国政策への反省もあって、一九七〇年代末、トウ小平のリーダシップで中国は対外開放の実行に踏み切った。トウ小平が世を去った四年後(二〇〇一年)、中国は自由貿易と市場経済をモットーとしたWTO(世界貿易機関)への加盟を果たし、中国経済をグローバル化の流れに取り込ませることになったのである。
改革開放政策が実行されてからの二八年間、中国経済は年平均九・七%(実質)の高成長を続け、一九七八〜二〇〇六年に実質GDP規模が一三倍に膨れ上がった。世界銀行がまとめた最新のレポート「東アジア・ルネサンス 成長のためのアイディア」(二〇〇七年六月)は、中国経済の変化を「昨今の世界で最も注目される成長の奇跡」と位置づけ、米ゴールドマン・サックス社のレポート「BRICsと夢を見る 二〇五〇年への道」(二〇〇三年一〇月)では、中国の経済規模は二〇三九年には米国を超えるだろうとの予測も出されている。実際、一九七〇年代末以降、中国の対外経済関係は目を見張る発展を遂げた。一九七八年に世界ランキングで三〇数位だった中国の貿易規模は二〇〇四年に日本を抜き、アジアで第一位、世界で第三位に浮上し、二〇一〇年には米国を超え、世界一になるとの予測(中国商務省国際貿易経済協力研究院)も出されている。
一九九三年以降、中国は発展途上国の中で最大の直接投資受け入れ先となり、二〇〇五年の受け入れ規模が七九〇億ドル(国際収支ベース)と、アジアNIES(新興工業国・地域)、ASEAN(東南アジア諸国連合)と日本を含む他の東アジア諸国・地域の合計に匹敵する。外資系企業は中国の輸出や工業生産、都市部雇用において大きなプレゼンスを示している。
世界銀行によると、二〇〇五年までの一〇数年間、中国の輸入が年平均一八%のスピードで拡大し、GDPに対する輸入の比率は三四%に達し、世界一位、二位の経済大国である米国と日本のそれ(それぞれ九%と一一%)の三倍前後にあたる数字となっている。中国貿易の半分以上が東アジア地域内を対象としているため、中国貿易の急拡大は東アジア地域の経済統合を牽引する重要な力とされている。
二一世紀に入ってから中国は対外直接投資国としても急台頭している。二〇〇五年中国の対外直接投資は世界ランキングでまだ第一七位(〇四年は第三〇位)にとどまっているが、二〇〇〇年の実績と比べると一〇倍以上も増加したのが注目される。世界一の外貨準備を有することもあって、中国の対外直接投資は今後大幅に拡大していく可能性が高い。
鄭和大航海出航の六〇〇周年にあたる二〇〇五年七月には、中国は「中国航海日」(七月一一日)の命名、記念切手の発行、シンポジウムの開催など多くの記念行事を行なった。政府主催のシンポジウムでは、中国が「陸上大国であるとともに、海洋大国でもある」ことと、諸外国との経済文化交流をさらに強化し、世界平和と繁栄のために新たな貢献を果たすことなどが強調されている。
本書は現地取材を含め、できるだけ第一次資料を利用し、新中国建国(一九四九年一〇月)以降の対外経済関係、とりわけ一九七〇年代末以降の改革開放政策の展開について考察・分析するものである。
全書は一一の章から構成されているが、各章の内容は以下の通りである。
第1章は一九五〇年代、一九六〇年代と一九七〇年代に分けて、計画経済時代における中国の対外経済関係を、第2章は対外開放への政策転換、多層的開放地区の形成、WTO加盟と地域経済協力への参加など対外開放政策の導入と拡大過程をそれぞれ紹介している。
第3章から第7章は中国貿易(第3章)、外資導入(第4章)、技術導入(第5章)、対外直接投資(第6章)、対外経済協力(第7章)など中国の対外開放の主要な内容に焦点を当てている。
第8章から第11章は、ASEAN・韓国・インドとの経済関係(第8章)、香港・台湾との経済関係(第9章)、米国・EU・ロシアとの経済関係(第10章)、日本との経済関係(第11章)にわけて、中国と主要国・地域との経済関係について分析している。
本書は、中国経済、なかでも中国の対外開放政策に対して関心を持っているビジネスマン・一般社会人や、大学などで中国経済論や中国対外経済関係論について学んでいる学生の皆さんに活用していただければ幸いである。