目次
1 学校で友人と交際を持たない中学生
問題と家庭状況
治療場面の実際
A君との面接について解説
2 治療的実践研究─ある事例についての治療的面接の検討
面接に入るまで
第一回の面接
第二回の面接
第三回の面接
第四回の面接
第五〜七回の面接
第八回の面接
第九回の面接
第一二回の面接
終結に向かって
おわりに
3 ある女子学生とその母親の並行並びに単独の治療面接
Fの発病状況と家族環境
Fとの面接経過
Fとの面接
Fとの面接中の母(A)との面接
Aとの単独面接
4 パーソナリティの変化─治療による人格の変化(建設的成長・成熟)ゆう子のケースをめぐって
はじめに
カウンセラーの面接における態度、考え方について
家族の状況・生活史と来談までの経緯
一回目の面接
二回目から五回目までの経過
ゆう子のケース 五回目(抜粋)
ゆう子のケース 九回目(抜粋)
面接による変化(成長・成熟)の過程について
5 ケース研究:ある女性の人生遍歴─個人とグループのコンバインド・セラピー
1 Mの個人的遍歴のプロセス
2 コンバインド・セラピーの意味
3 個人療法の展開と停滞─母への暴力のエピソード
4 グループヘの参加とその後
5 終結
6 治療的面接(カウンセリング)の実際
事例を取りあげる意味と、その際の注意について
事例の概要
最初の面接に至るまでの接触の重要さ
第一回目の面接、沈黙と砂場の作品(1)
第一回目の面接、沈黙と砂場の作品(2)
二回目以降のサボテンの意味ある出現
三回目から五回目のキャンセルまでサボテンを通じての関係のふかまりと、その結果としての治療者の介入の失敗
五回目のキャンセルをめぐって
クライエントの陰性転移感情、両向性感情にどのように共感し、
対応することができるか、あわせて治療者の反対転移について
解説 保坂亨(千葉大学教授)
主な研究業績
佐治守夫年譜
前書きなど
編者あとがき
この『臨床家佐治守夫の仕事』(全3巻)が出来る経緯について、少しく書いておきたい。
佐治守夫先生は、東京大学教育学部教授を1984年に退官なさったあと、主たる仕事場として、私ども日本・精神技術研究所(以下、日精研と略)の心理臨床部門である日精研心理臨床センターを選ばれ、1996年にお亡くなりになるまで、センター長の役割を果たしつつ、心理臨床に関する旺盛な諸活動をなさった(この間のことについて、私は、2006年に日精研が刊行した『日精研における佐治先生』の中で「佐治先生はなぜ日研に?」のタイトルで、詳しく書いた。関心のある方は、ご参照の程)。
実は、日精研は昨年(2006年)法人化40周年という節目の時を迎え、また、それは、佐治先生没後10年という節目の時でもあった。何か記念になることをと考え、いくつかの周年記念事業を行うとともに、上述の『日精研における佐治先生』の刊行もその記念事業の一環として行ったのだった。
その際に、私の頭の中に、日精研の周年事業とは少し離れた形ではあるかもしれないが、この際何らかの形で、『佐治守夫著作集』のようなものが編めないだろうかというアイディア浮かんだ。そして、もしそういうアイディアの実現が可能ならば、日精研が出版するというのは、いささか荷が重いので無理だけれども、その実現に向けて何らかの努力をすることが、会社の方針としても確認され、その方向を内田が追求してみることになった。
佐治先生は、多彩な臨床活動の割には、著書の少ない方だったと思う。しかし、私は佐治先生の傍らにいて、先生は結構著作をしておられたし、またあちこちで講演などをして、それを関係者の方達が活字になさったりしていることなども知っていた。そこで、私は日本の代表的な心理臨床家である佐守夫先生の著作集のようなものが出来たら、それはそれで意義深いのではないかと考えたわけである。
しかし、私は、佐治先生の傍らにはいたけれども、一介の会社経営者であり、心理学の専門家でも何でもないので、先生の著作集を中心的になって編むなどという大それたことが出来るはずもない。
そこで、私は、先生の著作集作りという事業を、中心的になって進めてくれる方はどなたかいないだろうかということを考えたわけである。その結果、近藤邦夫先生にその役をお願いしたらどうだろうかというアイディアを持ったのである。
近藤先生は、佐治先生のあとに、東京大学教育学部の教授になり、佐治先生とも極めて近い関係にあった方で、その後、完全に引退なさっているという方である。また、過去に日精研ともあるプロジェクトでご一緒に仕事をしたこともあり、私とも世代が一緒で昵懇でもあった。このプロジェクトの中心的推進役としては最適の方と考えたのである。
そこで、2005年の12月に先生にお目にかかり、佐治著作集の構想と、その実現に向けて、中心的役割を担っていただけないかを打診したのである。先生の答えは、「わたしは、東大を辞めたあと心理の世界からはすっかり離ている。また、現在そういうことに携わるエネルギーもないのでお断りする」といったかなりネガティブなものであった。私としては、ここで引き下がってはならじと、なおも食い下がったところ、「では、協力してくれそうな人を探し、紹介するところまでならしましょう」ということを言ってくださった。私は、密かに「しめた!多少の脈あり」と思った。
いくつかの経過を経て、先生は何人かの方を紹介してきてくださった。それが、今回の著作集の編集に関わってくださった各氏であった。そして2006年になって、これらの編集者に下田節夫氏が加わた7人で何回かの会議を持ち、佐治先生の書かれた著作を収集しリスト化することから作業を始めた。
幸い、下田節夫氏と鈴木乙史氏が、既に佐治先生の著作を現物やコピーの形でかなり所持しており、これに保坂亨氏が所持していたものや日精研に保存されていたものを合わせると、8〜9割方の著作が集まったのである。
この頃になると、近藤先生も全面的に編集に関わってくださる覚悟を決めてくださり、結局、最後まで編集長的なリーダーシップを取り続けてくださったのである。われわれは、このグループを作ると同時に「メーリングリスト=MLを形成し、大方のコミュニケーションは、直接会議を持つのではなく、このMLを通して行った。そのコミュニケーションにおいても、近藤編集長(?)は、卓抜な役割を果たしてくださったと思う。
3月になった頃だったと思うが、この著作集を出版してくれる出版社探しを始めた。これも、いくつかの経過を経て、結局、明石書店さんがこの著作集の出版を引き受けてくださることになり、一同ホッとしたものである。
もちろん、収集したものを全部著作集に収録するなどということは出来ない話である。明石書店さんの方も、300頁3巻ぐらいの著作にまとめて欲しいとのご意向を示してくださった。そこで、編集側で検討のうえ、今回ここに出来上がったように、第1巻『論文編』、第2巻『事例編』、第3巻『エッセイ・講演編』という構成が出来上がった。それぞれに何を収録するかという問題は、そう簡単な問題ではなかった。結局、第1巻は近藤、第2巻は保坂、第3巻は無藤が分担して、収録する候補作を選び、編集者間で忌憚なく意見を交換しながら、ここに出来上がったものに落ち着いたのであった。こういう形に落ち着くに至るには、実に多くのML上や直接のやりとりが交わされ、かなり膨大なネルギーが費やされた。
(中略)
私は、佐治先生の傍ら、10年以上を親しく過ごすことが出来た。先生も私も酒を大いに嗜んだため、酒席でいろいろなお話を伺った。他愛もない話もたくさんしたが、先生の学問や実践についてのお話もいろいろ伺った。本著作集の中にも収録されているが、鼠のロボトミーの話や、先生が患者として入院し、統合失調症の患者さんとともに過ごした話などは、佐治先生から、炉辺話のように伺った記憶がある。また、本著作集の資料編の「読書アンケート」にまつわる話なども時々したものである。私自身そんな経験を通して、佐治先生が独自の学問・思想・教養形成を通じて、「佐治理学」の世界を切り拓いたのだということを今さらながら、強く感じている。この「著作集」の完成を感慨深く感ずる所以である。