目次
刊行によせて(佐藤一子)
まえがき
序 章 「多文化共生教育」の提起
1 日本の中の「在日」韓国・朝鮮人
2 「多文化共生教育」の概念設定
3 研究対象としての川崎市の教育運動
第1章 「在日」韓国・朝鮮人の歴史的形成史
1 「在日」韓国・朝鮮人形成のルーツ
2 「外国人」としての韓国・朝鮮人の成立
3 「在日」としての生活状況
第2章 川崎市における在日韓国・朝鮮人集住地域の形成
1 韓国・朝鮮人集住地域の成立
2 川崎市桜本地区の生成
3 池上町の韓国・朝鮮人の実態
第3章 地域教育実践活動の形成──1970年代の川崎市の変革を中心に
1 桜本保育園の開園
2 在日世代の意識変革──「日立就職差別闘争」
3 社会福祉法人「青丘社」の誕生
4 地域教育体制の確立
5 組織整備及び要求の具体化
第4章 公教育への働きかけ──「川崎市在日外国人教育基本方針」の制定
1 「すすめる会」──その前史
2 「川崎在日韓国・朝鮮人教育をすすめる会」の発足
3 基本認識の表明──「川崎市における在日韓国・朝鮮人教育をすすめるための基本認識」の公式化
4 「川崎市在日外国人教育基本方針」の制定
第5章 地域の学習空間の創造──川崎市「ふれあい館」設立への動き
1 民生局交渉の開始
2 「ふれあい館」への具体的構想化
3 共生理念の受容
4 地域社会に拡がる活動の輪──共生のまちづくりへの始動
第6章 持続的発展に向けての取り組みの展開──1990年代以降の実践及び施策の展開
1 「共生」の拠点としてのふれあい館
2 「共に生きる」ためには──川崎市社会教育施策の展開
3 市政参加の制度化──「外国人市民代表者会議」
第7章 「多文化共生教育」形成のメカニズムの解明──1980年代の青丘社の実践メカニズムの提示
1 地域実践の全体像及び周辺要因の変化
2 新たな主体像の模索──1970年代の状況の変化
3 1980年代の実践メカニズムの分析
終 章 未来への展望──川崎実践の意義と示唆点
1 「多文化共生教育」の基本前提の提起──新たなパラダイムへのシフト
2 教育理念としての「共生」理念の生成
3 「未来」に向けて──あしたへの新たな挑戦
注
参考文献
参考資料
あとがき
索 引
前書きなど
まえがき
本書は、日本における多文化教育をアイデンティティと共生を中核とする「多文化共生教育」として規定し解明するものである。
日本に来て8年、この間日本と韓国の関係は、2002年のサッカー・ワールドカップの共同開催や「冬ソナ」に代表される韓流ブームで、地理的距離だけでなく文化的・社会的距離も縮まっている。
このように進展している日本と韓国の関係。日本ではこの2つの国の狭間で戦前から生きてきた人々がいる。「在日」韓国・朝鮮人である(但し、本書における「在日」韓国・朝鮮人は、国籍のみならずその「ルーツ」が朝鮮半島にある人々であることを予め断っておく)。
韓国にいた頃大学のキャンパスで見た「在日」同胞の学生たちは、日本から来た留学生であり、彼らがどのような思いで韓国に来たのか知る由もなかった。つまり、彼らは私にとって見えない存在であったのである。しかし、自ら日本に渡り、日本社会で生きていく状況に置かれた時に、それは劇的に変わってくる。自分自身が外国人という立場に置かれることで、彼らが見えてきたのである。
「在日」韓国・朝鮮人がどのような歴史を歩んできたのか、どのような生活をしてきたのか、韓国からやってきた私は何も知らなかった。しかし、何も知らなかったことからの反動なのか、いつの間にかニューカマー外国人として、在日韓国・朝鮮人に関して発信していくことが自らの研究課題の1つとなっていた。
「コリアン・ディアスポラ」として生きる自らのスタンスに立ち、川崎の小さな街で起きた、在日韓国・朝鮮人と日本人による「多文化共生教育」に向けての挑戦。それを1970年代から今日に至るまで追ったのが、この本である。
グローバル化に伴い、日本の国際化が今後益々進展していくことはいうまでもない。つまり、日本の中に無数の他者が存在してくる。このような他者との共存をどのように図っていくのか、この問いに何らかの手掛かりを、この本を通して提示することができればと思う。
川崎の実践は、在日韓国・朝鮮人だけによるものではなかった。彼らを受け入れ理解し、共に彼らの人権を取り戻す活動に取り組み、そうすることによって日本を「共に生きる社会」に変えていこうとした日本人との連帯があったからこそ、それは可能であった。まさに、こういった協力関係に基づきながら生まれてきたのが、「共生」であり、「多文化共生教育」である。
本書は、次のように構成されている。
まず、序章では、日本社会における「在日」韓国・朝鮮人を新たな可能性を切り開いていく主体として位置づけ、社会教育における多文化教育を概観するとともに本書の中心概念である「多文化共生教育」を定義する。
第1章及び第2章では、「在日」韓国・朝鮮人の形成史をマクロ的及びミクロ的に検討する。このような歴史的形成への認識は、第3章以後を理解する上で重要となる。
第3章では、1970年代の民族差別撤廃運動や民族教育実践を触発する「日立闘争」を中心に「青丘社」の設立や実践活動を詳細に分析し、実践のいかなる側面が1980年代の「ふれあい館」設立や「川崎市在日外国人教育基本方針」制定の交渉へと駆り立てたのかを明らかにする。
第4章及び第5章では、それぞれ「川崎市在日外国人教育基本方針」制定と「ふれあい館」設立に向けての川崎市との交渉のプロセスを綿密に追いながら、青丘社と行政との合意形成や対外国人施策がどのような過程を経て形成されるのかを分析する。
第6章では、1990年代以降の川崎市とふれあい館の「多文化共生教育」活動を概観し、青丘社の活動によって提起された「共生」理念がどのように具体化され、受け継がれていくのかを明らかにする。
以上のような分析を踏まえて、第7章では川崎の実践が形成される構造及びそのメカニズムを提示する。このようなメカニズムの提示は、1970年代の新たな主体の形成を含め、「多文化共生教育」や「共生」理念がどのように創り上げられていくのかを明確にすることを意味する。終章では、川崎の実践からどのような示唆が得られるのか、そしてこれをどのように活かせるのかを「多文化共生教育」の視点から提起する。
このような分析を進めていく上で、「青丘社ニュース」、「川崎在日韓国・朝鮮人教育をすすめる会」から出された「すすめる会ニュース」及び「民族差別と闘う連絡協議会」から発行された「民闘連ニュース」と交流集会資料など、青丘社をはじめとする関連組織から出された機関紙、そして、青丘社の内部メモや論議資料及び合宿資料、1980年代の交渉に関連するファイルなど、現在「ふれあい館」に所蔵されている諸ファイルを1次資料として分析した。なお、「ふれあいかんだより」、運営協議会会議録などの内部資料やふれあい館及び青丘社の公式出版物、諸論者による論文などの2次資料をも用いた。さらに、1次・2次資料を補足するものとして、当時の交渉や青丘社活動に関わった人々を対象にsnowball sample方式で聞き取り調査を行った。
在日韓国・朝鮮人をめぐる状況が変わっていく中で、本書においてはその対象を在日韓国・朝鮮人の「2世」に限定することを断っておく。
川崎の挑戦は、川崎だけのそれとしてではなく、より普遍性を有するものとして考えてほしい。「共生」という理念、そしてそれを目指す「多文化共生教育」とは、異なる他者を受け入れようとする心から始まるのである。
2007年9月
金侖貞