目次
はじめに(椎野若菜)
この本を読む前に(伊藤 眞・椎野若菜・福井栄二郎・渡邊欣雄)
第1部 制度のなかで生きるやもめ
第1章 配偶者亡きあとの再婚——逆縁婚と順縁婚(渡邊欣雄)
第2章 くらしに埋めこまれた「レヴィレート」——ケニア・ルオ社会(椎野若菜)
第3章 寡婦がうまれる条件——オーストリア農村の結婚について(森 明子)
【コラム1】北欧の寡婦たち(レグランド塚口淑子)
第4章 タプタニがやって来る——女性同士の結婚の「夫」というやもめ(小馬 徹)
第2部 やもめとセクシュアリティ
第1章 ヴェドヴァの「力」の背後にあるもの——イタリアの寡婦(宇田川妙子)
第2章 夫を亡くした女が困らないわけ——ニューギニア・テワーダ社会(田所聖志)
【コラム2】寡婦の誕生——ヴァヌアツ・アネイチュム女性の過去と現在、そしてキリスト教(福井栄二郎)
第3章 白いサリーと赤いシンドゥール——北インド農村の寡婦の物語(八木祐子)
【コラム3】サティー(田中雅一)
第3部 慣習、宗教と戦いのなかのやもめ
第1章 漢人寡婦と儒教倫理——その理想と現実(秦兆雄)
【コラム4】最後に笑うのは寡婦——南タイにおけるムスリムと仏教徒(華人系、タイ系)の混住村落にて(西井凉子)
第2章 戦争未亡人の物語と社会の軍事化・脱軍事化(上杉妙子)
【コラム5】イスラーム法における寡婦(堀井聡江)
第4部 変容する社会と「たゆたう」やもめ
第1章 「イエ」の外に曝される寡婦——儒教的寡婦像とグローバル化のはざまで(岡田浩樹)
第2章 南海の島の寡婦たち——パプアニューギニア・マヌス島クルティ社会(馬場 淳)
第3章 結婚の絆、夫婦の絆——家族の観点から(伊藤 眞)
おわりに まとめと新たなはじまりにむけて(椎野若菜)
前書きなど
はじめに(椎野若菜)
人間社会には、かならず結婚という社会制度が存在する。それは、長年の人類学的研究からも明らかである。だが、すべての人が結婚する/できるわけでなく、独身で過ごす人もいる。また結婚したあと、何かのきっかけや事件で配偶者を失ったり別れたりする人もいるだろう。本書のタイトル「やもめぐらし」とは、何らかの理由で法的な連れあいをもたない、ひとりである状態を意味している。
では、「やもめ」である人びとは、どのように家族や身辺の環境を再編してくらしているのだろうか。なかでも注目したいのは、夫を亡くした妻がその後、どのように生きているか、ということである。夫の死後、残された妻はひっそりとひとりで生き続けるのか。あるいは、気持ちを切り替えて、新しいパートナーとの生活を始めるのか。また、ひとりでいるべきだと、周りから圧力がかけられるのか。世界各地の社会によって、結婚の手続きや結婚生活の有り様は大きく異なる。くわえて離婚、再婚がくり返せるところもあれば、もともと離婚という概念がない社会もある。つまり、それぞれの社会がもつ特徴が、異なった形でやもめの処遇に反映するのではないかと考えられる。人びとは、「やもめ」という状態をどう解釈し、その処遇を位置づけるのであろうか。
本書は、異文化社会に長期間身をおいて、フィールドワークを行った社会・文化人類学(以下、人類学と記す)者によって書かれたものである。フィールドワークとは、実際に異文化社会に赴き、少なくとも数ヵ月から数年以上は現地の人びとと生活を共にし、日常生活の種々の営みを観察したり、特別な儀礼に参加することをとおして、土地の文化を学習する行為である。異文化やその土地にまつわる歴史的事象を学ぶためには、経験豊富な人をインフォーマントとしてインタビューしたり、ときに助手という形で現地の人に調査を手伝ってもらうこともある。本書は、人類学者たちが、フィールドで出会った「やもめぐらし」の人びとについて書いた論考から成っている。
ここで「やもめ」に関連する日本語の語句について簡単にふれておきたい(拙稿「寡婦という言葉」『民博通信』一一三号、国立民族学博物館、二〇〇六年)。「やもめ」という語は、はやくも『日本書紀』にみられる。また日本人なら誰もが知っているかぐや姫も「やもめ」であったと、竹取物語には書かれている。つまり、このかぐや姫の例にみられるように、当初「やもめ」の意は未婚/既婚にかかわらず、ひとりでいる状態の人を表していた。その意はやがて、女性のひとりぐらしには「やもめ」を用い、男性のひとりぐらしには「やもお」という語をあて、男女を別にさすように変わっていった。また一方で、配偶者と死別した人のことをさして「やもめ」といったり、男女を区別して女やもめ、男やもめ、と使うようになったりと、現代の「やもめ」という語の使用方法は多様といえよう。
ほかに思い浮かぶのは「寡婦/寡夫」、そして「後家」や「未亡人」といった言葉であろう。「後家」という語は、中世から使われるようになったもので、当初は男性の子孫の意で用いられていた。だが十一世紀になると、「後家」とは亡夫の財産の相続、管理をする権利のある女性、という法的な意味合いに変わった。だがそれも近世になり、家父長的な「家」がより一般化したことで後家の立場にも変化が生じ、たんに独り身で「家」を継承する存在からは外れた「やもめ」と、法的に相続権のある「後家」の社会的地位は徐々に同等になっていった。また服藤早苗氏によると「未亡人」という語も、十一世紀までは文献上ほとんどみられないという(二〇〇五年比較家族史学会・秋季大会ミニシンポジウム報告)。この語も、もともとは男女の別を問わず一般に用いられる仏教用語だったが、徐々に女性のみに用いられるようになった。やがて「貞女は二夫に見えず」という儒教の道徳が広まり、夫を亡くした女性の振る舞いを拘束するようになり、明治期以降、「未亡人」の語が頻繁に用いられ「夫と共に死ぬべきであるのに未だ死んでいない」という家父長制的なニュアンスも付加されてゆく。とくに第二次世界大戦後、戦争で夫を亡くした女性は「戦争未亡人」とよばれるようになり、この時代の文脈ではむしろ、敬称として用いられるようになったといったという(第三部第二章参照)。
近年は「未亡人」という語が女性のみに用いられ差別的であることは否めないとして、その代替語として「寡婦」が学術著書や論文、行政において用いられつつある。「死別男性/死別女性」としたほうがよいという声がフェミニストからあがっている現状もある(上野千鶴子とメディアの中のメディアの性差別を考える会『きっと変えられる性差別語——私たちのガイドライン』三省堂、一九九六年)。
このように、「やもめ」「後家」「未亡人」「死別男性/死別女性」など、配偶者を亡くした人を指す語は、時代によってその意味や用法を大きく変えてきた。しかし、その変遷の実態についての検討はまだ不十分であり、今後よりくわしい歴史的研究がなされるべきだろう。
それでは、人類学における先行研究はどうだろうか。配偶者なき人びとの、くらしそのものに注目した詳細な研究は、さしてなされてこなかったといえる。その理由は、多くの人類学者が配偶者なき人びとを結婚の外にいるかのようなマイノリティと位置づけてきたためである。またなかでも、社会の再生産のシステムという文脈においてのみ、女やもめ(寡婦)に関する制度をみてきたこと、「寡婦相続」「レヴィレート」「寡婦庇護」などの類似した専門用語が整理して用いられてこなかったことなどがあげられるだろう(拙稿「『寡婦相続』再考——寡婦をめぐる諸制度の人類学的用語」『社会人類学年報』二九号、二〇〇三年)。
本書は、従来の人類学が、夫と妻がいる結婚家族を社会のメインストリームであると想定し、家族像と社会像を描こうとした結果、捨象されてきた配偶者なき人びとに、あえて目をむける。そしてそうした人びとを、「やもめ」という、やや憂いを含んだ、あいまいな、かならずしも男女いずれかを限定しない言葉で表したい。つまり、対象を広義の「やもめ」——配偶者と死別した「寡婦/寡夫」、未婚者、離婚者とする。あたかも社会から零れ落ちているように位置づけられてきた、配偶者なき人びと、やもめ。しかし社会とは、注目されてこなかったこうした人びとを含めて全体なのである。世界のそれぞれの社会では、配偶者なき人とはいかなるカテゴリーであり、彼らは社会のなかでどのような位置に生きているのか。なかでも本書が注目する夫を亡くした寡婦の処遇とは、どうであろうか。そのカテゴリーの内実そのものが、それぞれの社会特有の理念と、社会全体の構成員の関係性を表しているものと考えられる。
この「やもめ」を通じ世界の社会をみていくと、何がみえるか。本書を読み進んでいただくと、読者は社会のメインストリームからは現前しえなかった当該社会の抱える特性と、人びとの生のダイナミズムに遭遇することになろう。