目次
プロローグ
第1章 ロシアの現実
1 ロシア人研究者と会う
2 チュクチの冗談
3 カムチャツカの悩み
第2章 コリヤークの現実
1 コリヤークとの出会い
2 ナタリアの涙
3 生きていた伝統文化
第3章 トナカイの供犠
1 死者へのトナカイ送り
2 川の霊へのトナカイ供犠
3 秋の大地におけるトナカイ供犠
第4章 コリヤークの1年
1 トナカイ遊牧の1年
2 儀礼と祭りの1年
3 コリヤークのカレンダー
第5章 精神世界への入口
1 向こう側の世界
2 モハモールの夢
3 循環のフィロソフィー
第6章 変化する生活
1 コリヤーク文化の過去
2 トナカイ遊牧の変化
3 変化する住居
第7章 コリヤークの社会と結婚
1 トナカイ遊牧とニミヨルガン
2 結婚と居住規則
3 親族名称と婚姻の規制
4 結婚の「更新」とトナカイの相続
5 コリヤークの社会と変化
第8章 コリヤークの死の儀礼
1 アレクセイとの再会
2 火葬と相撲
3 ナタリアの語る死の儀礼
4 ユーリの語る死の儀礼
5 地上への再生
6 死の儀礼の世界観
第9章 本当の火
1 子トナカイ誕生のキルウェイ祭礼
2 ユーリのキルウェイ
3 アレクセイとナタリアのキルウェイ
4 キルウェイの世界観
5 新年の祭礼とトナカイの頭の踊り
第10章 日々の生活
1 アレクセイとナタリアの生活
2 ワシリーの生活
3 日々の生活と親族
4 熊とアレクセイ
5 シャマンと熊
6 コリヤークの狩猟の祭礼
第11章 コリヤークの未来
1 トナカイ遊牧の将来
2 迷える世代
3 コリヤークの子供たち
エピローグ
あとがき
前書きなど
プロローグ
新潟空港を離陸したジェット機は空の上をすべるように北上し、ロシア極東地方へと向かっていた。1993年8月のことである。雲の下には日本海が薄く青色に輝いて広がっている。この海を見つめながら、私は先日モスクワで読んだロシアの民話を、まるで夢の中の断片的な記憶をたどるように思い出そうとしていた。
「昔、ノブゴロドの王が財宝を求めて遠征した。彼は海の底にある国にまで到達すると、そこで海の王女と出会い、結婚した。楽しい年月をすごした後、彼は故郷に残してきた妻のことを思い出し、海底の国を後にした。海の王女は彼の後を追ってノブゴロドまでやって来た。しかし、そこで妻と幸せに暮らしている王を見て、彼女は嘆き悲しみ、身を投じた。彼女はボルホフ川となった。そして、今でも彼女はロシアの大地を潤しているのである」と。
13世紀にモスクワに興った小国は全ロシアを統合(16世紀)し、やがて1917年のロシア革命を経て、ソビエト連邦の結成(1922年)へと向かう。しかし、現在、この大国は急激に変化しつつある。それは、70年間にもわたって維持されてきた一党独裁の国家体制が破綻(はたん)し、旧ソビエト連邦そのものの解体をもたらすという変化が起こったからである。そこでは、ペレストロイカと呼ばれる経済改革運動とグラスノスチと呼ばれる情報公開制がすすむ中で、1991年8月、かつてのソビエト連邦の一部であったバルト3国が連邦から離脱した。さらに、共和国の中でも中央アジアのカザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギスタン、タジキスタンが独立した。残った諸共和国は同年12月、ロシア共和国を中心として新たにロシア連邦を結成した。
もっとも、このロシア連邦がソビエト連邦解体後の最終的な姿であるという保証はない。たとえば、中央シベリアにあるヤクート自治共和国は、ヤクートの自称であるサハという言葉を冠したサハ共和国として独立を宣言し、ロシア連邦からの離脱をはかろうとしている。また、少数民族からなるさまざまな自治管区は、同様に共和国としての独立を目指している。さらに、アムール、サハリン、マガダン、カムチャツカという極東諸州、および、ハバロフスク、プリモルスキー(沿海)という極東諸地方が、今後ロシア連邦とどのような関係をつくるのかということも確定してはいない。さらに、マガダン州にはチュコトカ自治管区、カムチャツカ州にはコリヤーク自治管区が民族独立の機会をうかがっている。ロシア連邦の枠組みそのものがいまだ変化のただ中にある。
実は、今回のカムチャツカ探検——ロシア人研究者は調査旅行のことをおそらくは国土の広大さと現在も変わらぬ現地調査の厳しさから「探検」と呼んでいるのであるが——は、このように激動する政治情勢のもとに行なわれることになったのである。したがって、調査には種々の困難が伴うであろうことが予測された。しかし冷静に考えると、このような不安定なロシアの政治状況ゆえにこの調査が可能になったと見ることもできた。国家経済の破綻は、人々に自分たちで生活の糧(かて)を得ることを強(し)いたのであり、これは各州・各地方の問題のみならず、旧ソビエト連邦科学アカデミーという国家の中央研究機関にとっても例外ではなかったからである。これらの機関で働く研究者たちには、すでに3カ月間にわたり給料が支払われていなかった。さらに、この数年間における2000倍を越える超インフレの中で、月に25ドル(1993年当時、日本円で約2500円、ロシア通貨で約2万5000ルーブル)という給料ではもはや暮らしていくことも困難な状況になったのである。そこで、彼らは他の民営企業がそうであるように、自らの活路を見出すべく、国際共同探検という事業を始めることにしたのである。それは、外国の研究機関に資金を依存し、そのかわりに彼らが今までに蓄積した経験と情報とを提供することで、共同研究を行なうというものであった。シベリア・極東の多くの地域は、外国人にとって調査はおろか立ち入ることさえできなかった地域である。そこに住む少数民族たちは、日本人と文化的、歴史的に深い関係があるにもかかわらず、古い文献の中に断片的に記録をとどめるのみであり、いつしか歴史の彼方へ忘れ去られようとしていたのである。それがこのロシアの政治変革と経済的必要性により、突如として門戸が開かれたということなのである。
これから始まろうとしている探検への期待に、私の胸ははずんでいた。しかし、それと同時にあきらめに似た沈痛な気持ちが私の心を覆っていた。期待というのは、この70年間にわたり研究者の誰もが入ったことのない極東シベリアの地に足を踏み入れることができるかもしれない、という思いであった。他方、沈痛な気持ちというのは、そこで会うことになるであろう北方民族は、すでに伝統的な生活や文化を失い、ソフホーズという国営農場の労働者として暮らしているにすぎないであろう、というあきらめであった。たしかに今回の探検についてロシア側の研究者の言うには、カムチャツカ半島北端のコリヤークやチュクチは、ツンドラや森の中を漂泊し、伝統的なトナカイの遊牧と狩猟の生活を送っている、というものであった。もし、それが本当ならば、私にとって人類学的に重要ないくつかの問題を解決するために、きわめて重要な情報を提供してくれるはずであった。しかし、このときには、私は彼らの言葉を信用してはいなかった。この現代に、伝統的なトナカイ遊牧を営んでいる人々がいるということは、とうてい考えられないことであったからである。
それにもかかわらず、私がこのカムチャツカ探検を決意したのは、なかばは事の成りゆきの結果であった。それまで私は西チベットにおいて10年以上にわたり、文化人類学の研究を継続していた。また、その前にはやはり10年間近く、カナダ北方森林の狩猟民の研究に従事していた。また、大阪にある国立民族学博物館から北海道大学に移ってからの10年間は、西チベットの研究と並行しながら、アイヌ文化の研究にも取り組んでいた。私の頭の中は、新たなフィールド調査を行なうよりは今までの研究資料の整理と、これらの比較に基づく理論的研究を優先させるべきであるという思いで占められていたのである。実際、この理論的研究の必要性のため、1991年には北海道大学において国際シンポジウムを開催した。「北方ユーラシアと北アメリカの宗教と生態」と題されたシンポジウムには、スウェーデン、フィンランド、フランス、旧ソビエト連邦、カナダ、アメリカ合衆国、日本からの研究者が参加し、3日間にわたり討論が行なわれた。北方ユーラシアと北アメリカという広大な地域——北極点を中心としたそのまわりの地域という意味で周極地域と呼ばれる——における北方諸文化の比較研究を通して得た結論は、この地域にきわめて共通した生態と世界観とが見られるということであり、それは日本をも含んでいた。そして、この研究の過程で、私にとってもうひとつの解決すべき新たな理論的問題が浮上してきたのである。それは、北方文化における狩猟と遊牧との関係という問題であった。
北方諸民族における狩猟という生計活動は、北方文化の特徴と深く結びついている。たとえば、アイヌの熊祭りの背景にある世界観は、人間と神との間の互酬性の継続——すなわち、熊は肉と毛皮をかぶった神であり、これらを土産物(みやげもの)として人間に贈り、人間からは礼拝と接待を受け、木幣(イナウ)をはじめとする土産物を受け取り、再び人間界を訪問することを招請されながら神の国に帰還する——という論理によって成り立っている。そして、この世界観は広く北方ユーラシアと北アメリカ諸文化に共通するものである。
しかし、北方ユーラシアにおいては、狩猟と同時に動物の飼育、牧畜が見られる。北アメリカでは、カリブー(アメリカ産野生トナカイ)は伝統的に狩猟の対象動物としての地位のみを占めるが、これと対照的にユーラシアにおいては、同じ生物学的種に属するトナカイが飼育される動物としての地位を占めているのである。すなわち、狩猟から牧畜へという生計活動の変化が、ユーラシアにおいて起こったのである。とくに、シベリアのツンドラ(永久凍土帯)においては、半野生のトナカイの群れとともに季節的移動生活を営む遊牧民が見られる。このような生計活動の変化がどのようにして起こったのかということが問題となる。さらに、それまでの狩猟生活と深く結びついていた彼らの社会組織および世界観が、いかにして遊牧生活に対応したものに変化し得るのか、あるいは変化し得ないのか、という疑問が生じてきたのである。この問題を解決することは、人類史における遊牧の起源を考えるうえでも重要であることは言うまでもない。
じつは、この問題は遊牧民における動物供犠(くぎ)の問題と深くかかわっていることに、私は気づいたのである。北方狩猟民における動物の狩猟とは、狩猟される動物と狩猟者との間の霊的な合意によって成り立っている。それはしばしば狩猟者の「夢」の中で形成され、さらに神話によって語られ、ときには熊祭りのような儀礼により社会の中で公に演劇化されるのである。そこでは動物を神そのものとして見るアニミズムを背景にしながら、人間と動物との間の互酬性(互恵性)が中軸となっている。しかし、遊牧民における人間と動物との関係は、これとは異なる。そこでは動物の繁殖を願うために動物を犠牲獣として屠殺(とさつ)し、大地、あるいは天という高位の神々にこれを供するのである。
私は先の国際シンポジウムで、狩猟民と遊牧民との比較を行なってみた。一方にカナダ北方の狩猟民を置き、他方にシベリアのオビ河流域に住むハンティの例、スカンディナビア北部のサーミ(ラップ)の例、さらに私自身が調査を行なってきた西チベットの牧畜民の例を対照することにより、狩猟から遊牧という生態的変化に伴う人間の思考の変換についての仮説を提示したのである。そこでは、人間が狩猟対象動物を家畜化することに伴い、かつての動物の霊的特性が失われ、これにかわって、かつて狩猟民にその萌芽がわずかに見られた動物の主霊の観念、あるいは天候や豊穣(ほうじょう)を支配する天の神や大地の神が強調される。人間が生態的に動物を管理するのと同様、これらの神々が動物を霊的に支配するという考えに変化している。そして、人間はこれらの神々を通して家畜に霊的な力を及ぼす、という方策を牧畜民は開発した。これが、家畜を殺して神々に捧げる供犠であると解釈されるのである。
狩猟民においては、狩猟者と動物との霊的交渉と合意により、動物が自らの意志で、狩猟されるために人間を訪問するという、あたかも動物が自らを供犠するかのような、動物から人間への供犠の方向があった。それが、遊牧民においては、人間が家畜化した動物を用い、新たに力を得た上位の神に対して供犠する、というように、供犠における方向とその対象の変換が起こったのである。これは動物と人間との間の関係を根本的に変えるものであり、さらに新たな神の創造とも関連するものである。すなわち、そこでは動物と人間との対等な関係から、動物と人間とを峻別し、神—人間—動物という垂直的な関係への変化が見られるのである。
さらに、この変化はあるとき一瞬にして起こるものではない、と私は考えた。すなわち、シベリアのさまざまな形態の遊牧文化においてその生活に狩猟活動が併存していることを考えると、生態的のみならず思考の面においても、狩猟と遊牧との間の移行形態が存在するはずであると考えたのである。その移行形態において、人間と動物との間にどのような関係が見られるのかということが、私の興味の中心であった。
もっとも、この仮説を検証するためには今までの資料では不足であった。もちろん、私は文化的に中央アジアと深い関連のある西チベットの遊牧民については資料をもっていたし、また、サーミについてもカナダの大学において専門の研究者から詳しい教えを受けたことがあり、私自身も彼らをラップランドに訪ねたこともあった。しかし、これらの資料は、私の仮説を検証するにはもうひとつもの足りなかったのである。シベリアの遊牧民においてトナカイの供犠を実際に観察した直接的な資料をもって、私が20年前にカナダの北方狩猟民において観察した具体的な資料と比較したかったのである。
そして、私がカムチャツカの探検に対してもっていた第二の興味は、文化の変化の問題であった。近年、北方地域の社会と文化は急激な変化をとげつつある。そこでは、従来の伝統的な北方文化研究の枠を越え、変化する国際関係に則した新たな北方研究の目標と方法とが模索されている。現在、変化をとげつつある北方地域の社会と文化を理解し、変化する国際関係に対応するために、従来より行なわれていた伝統文化の比較研究にとどまらず、変化という新たな枠組みの中での北方研究の展開が求められているのである。そこでは変化する伝統文化と個人との関係、変化する民族と国家との関係はもとより、それらと密接に関連する国際関係の分析が重要になってくる。カムチャツカにおける遊牧社会が、旧ソビエト連邦のもとにおけるコルホーズ(集団農場)、ソフホーズ(国営農場)という体制の中でどのように変化したのか、さらに近年のペレストロイカ、グラスノスチという変革にいかに対応し、将来どのような方向をとろうとしているのかということは、学問的に興味ある課題であり、同時に今後の日本とロシアとの間の国際関係にとっても重要なことである。
ところで、私たちは1991年に国際学術会議としての北方学会を設立していた。北方学会の目的は、多様な北方文化の研究と国際協力を通して人類の理解に貢献することである。したがって、その活動内容には国際シンポジウムの開催をはじめ、北方研究に関する情報の収集、発信を行ない、関連学会、研究機関との間での情報の交換と相互協力を推進することが含まれている。ここでは、国際的視野に立った学術交流が必要となる。私はロシア科学アカデミーとの間の国際共同研究を、この第一歩として位置づけたのである。
カムチャツカ地域における国際共同研究は、1991年にロシア科学アカデミーとの間で提案された。1992年には研究のための候補地の選定と研究遂行のための協定が結ばれた。1993年にはこの計画に基づき、計画が具体的に動き始めた。しかし、ロシアと日本の間の通信事情の悪さから、相互の連絡は困難をきわめた。手紙は着いたとしても3カ月間を要した。わずかにファックスでの通信が私たちの間の計画の継続を保証していた。1993年の8月に私はこの計画とは別の国際会議のためモスクワに飛び、サンクトペテルブルクのロシア科学アカデミーの研究者と電話で交信した。そこで、カムチャツカ探検のための必要装備、機材、人材等についての最終的打ち合せを行なうことができた。そして、私は日本に一旦戻り、探検のための査証(ビザ)をロシア領事館から受け取った。そして、装備を整えて、私たちが合流することになっている極東ハバロフスクに向けて日本を飛び立ったのである。
私たちの計画では日本側から私1名、ロシア側から3名の研究者、カムチャツカで2名の現地案内人の参加が見込まれていた。もっとも、現地の遊牧民のところにまで行くのに、ヘリコプターで行く当初の計画が予算上困難となり、キャンプしながら歩いて行くという。これには私も少し心配になり、重い機材をかついで歩くのには私は少し年をとりすぎていることを説明した。ロシアの研究者はこれに対し、荷物はトナカイの背に積んで運搬するから問題はないとの返答であった。また途中、熊や狼が出るが、ハンター(狩人)が鉄砲を持って同行するのでこの点についても心配はしなくてよいと言う。現地の案内人が狩人であるのみならず、ロシア側研究者のうちの1人は鉄砲の上手なハンターでもあるとのことであった。
実際のところ、カナダの北方狩猟民の中で生活した経験のあった私にとって、熊や狼が出るということは心配の種ではなかった。だから、これを聞いて私はなかば遠足に行くように少しうきうきした気持ちになり、しかしなかばはロシアの研究者がどのように言ったところで、研究対象とする伝統的な遊牧文化はすでに変化してしまっているのだろう、というあきらめに似た気持ちで飛行機に乗ったのである。
飛行機は日本海からロシア沿海地方の海岸線を越え、小さな山々の連なる内陸へと入っていった。やがて、大きく旋回すると、眼下に森と湿原とその中を曲がりくねって流れる大河が見えた。ロシアと中国との国境を流れ、オホーツク海にそそぐアムール河である。ロシア側の研究者が待っているハバロフスクは、この河岸に位置するはずである。多くの困難が予想されるにもかかわらず、不思議と静かな気持ちで、私はシベリアの大地にその第一歩を印そうとしていた。
いよいよ、カムチャツカへの旅が始まるのである。