目次
序 文(ヴァンダナ・シヴァ)
第1章 森林伐採
第2章 森林居住者
第3章 説明責任
第4章 森林を殺す
第5章 世界をパルプ(ドロドロ)にする
第6章 嘘というボディガード
第7章 粉飾(不正操作)システム
第8章 腐 敗
第9章 現実の世界におけるグローバル化
第10章 世界を消費する
第11章 解決策の失敗
第12章 ギルガメシュを拒絶する
謝 辞
参考文献
団体紹介
訳者あとがき
索 引
著者紹介・訳者紹介
前書きなど
序 文
森林はいつも私に、平和、多様性、民主主義について教えてくれる教師であった。森林では、小さいものや大きいもの、動くものや動かないもの、地上のものや地下のもの、羽や翼を持つもの、脚や肢を持つもの、葉を持つものなど、多様な生き物が居場所を持っている。森林は私たちに、多様性のなかに平和の条件、民主主義の実現があることを教えてくれる。
私はヒマラヤ地方の森林のそばで育った。地元の小農民の女性たちが「チプコ(木に抱きつく)」運動を始めたとき、私は物理学の研究者のキャリアを捨てて、環境研究と環境運動の分野に移った。
森林はインドにとって常に中心的なものであった。それは生命と肥沃さの主要な源泉とされる森林の女神アランヤーニ(Aranyani)として崇拝されてきた。コミュニティ[群落、生物共同体]としての森林は、社会進化の模範とみなされてきた。森林の多様性、調和、自己維持的性格が、インド文明を導く組織原理を形成した。アランヤ・サンスクリティ(このサンスクリット語を大ざっぱに訳せば、「森林の文化」あるいは「森林文化」である)は原始性を条件づけるものではなく、意識的に選択されたものを条件づけるものであった。ラビンドラナート・タゴールによれば、インド文化の特異性は、森林での生活を文化進化の最高形態として定義したことである。『タポヴァン』で彼は書いている。
現代の西洋文明は煉瓦と木材の構築物である。それは都市にルーツを持っている。しかし、インド文明は再生、材料、知性の源泉を都市ではなく森林のなかに持っている点で独特である。インドの最良の観念は人が雑踏から離れて、木々や川や湖との霊的な交わりにひたっているときに訪れる。森林の平和は人の知的進化を助けてきた。森林の文化はインド社会の文化を元気づけてきた。森林から生まれた文化は、森林で常に営まれている生命の更新の多様なプロセス——種によって、季節によって、その光景や音やにおいは様々である——によって影響を受けてきた。多様性のなかの民主的多元主義という生命の統一原理は、したがってインド文明の原理となった。
煉瓦と木と鉄に閉じこめられていないので、インドの思想家たちは森林の生命に囲まれ、それと結びついていた。生きている森林は彼らにとって住居であり、食べ物の源泉であった。人間の生活と生きている自然の親密な関係は、知識の源泉となった。この知識体系においては、自然は死んだ不活性なものではなかった。森林のなかでの生活の経験は、生きている自然が光と空気と食物と水の源泉であることをいみじくも明らかにした。
生命の源泉としての自然は神聖なものとしてあがめられ、人間の進化は知的、感情的、霊的に自然のリズムとパターンに融合する能力を尺度としてはかられた。森林はかくして、自然との調和という最も根源的な意味でのエコロジー的文化を育んだ。森林の生命への参加から生まれるそうした知識は、単なる『アーラニヤカ(森林書)』の本質であっただけでなく、部族社会と小農民社会が日常的に守っていた信念でもあった。地球の肥沃さと生産性の最高の表現としての森林は、母なる大地、あるいはヴァナ・ドゥルガ(Vana Durga)すなわち木の女神が、また別の形で象徴している。ベンガル地方では、彼女はシオラの木(学名 Trophis aspera)[和名不詳]と、またサルの木(学名 Shorea robusta)[和名サラソウジュ]やアシュバッタの木(学名 Ficus religiosa)[和名インドボダイジュ]と結びつけられている。コミラ地方では彼女はバマニ(Bamani)と呼ばれ、アッサム地方ではルペスワリ(Rupeswari)と呼ばれる。民俗文化や部族文化では、樹木や森林はヴァナ・デヴァタ(Vana Devatas)、すなわち森林の神々としてあがめられている。
しかし森林、私たちの聖なる母、平和と安全の教師は、同時に戦争の犠牲者になりつつある。それはモノカルチャーの精神——自然を原材料に、生命を商品に、多様性を脅威に還元し、破壊を「進歩」とみなす——の暴力によって解き放たれた戦争である。本書(邦題『破壊される世界の森林——奇妙なほど戦争に似ている』)のなかで、デリック・ジェンセンとジョージ・ドラファンは、私たちの生きている守護者へのテロ的攻撃と、私たちの真の安全の破壊に対して、目を開かせてくれる。
ヴァンダナ・シヴァ
二〇〇三年 八月八日