目次
映画は共産主義に似ている(スガ秀実)
序章 スガ秀実 今なぜ「68年革命」なのか
小ブル急進主義であること/今もなお進行している「革命」
第1章 松田政男 日共体験・直接行動・第三世界
ニューレフトの誕生/主体性論争とモラリスト論争/“やる”という動詞の原形/疎外革命論の批判と第三世界論の導入/“68年”は革命か反革命か
第2章 西部邁 綱渡りの平衡棒を求めて——ブントからコンサバへ
グローバリズムとインターナショナリズム/マルクス経済学と宇野経済学/詩的なアジテーションと散文的な結果/六〇年安保——センチメンタル・ジャーニー/大衆批判のほうへ/左右両翼の綱の上で/アメリカ的なるものについて
第3章 柄谷行人 整体としての革命
アナーキズムに対する親和性/ブントと宇野経済学/実存とシンギュラリティ/代表制とくじ引き/共産党に対して/「赤い太陽族」と大衆社会/心の問題とシステムの変更
第4章 津村喬 身体の政治性/政治の身体性
70年7・7という日本思想史のターニングポイント/マイノリティ問題の位相/成り代わり糾弾=代行という問題/フォルマリスムとしての毛沢東主義/身体存在という政治性/自己否定としての気功・超能力願望/ナショナリズム批判としての「《国=語》批判の会」/革命概念の転換/持続と転形/対談を終えて
第5章 花咲政之輔 ニューレフトの行方
2001年7・31——“市民”ではない者たちによる運動?/“68年”は勝利したか/“統一戦線”の新たなかたち/右傾化、引きこもり、不良性/新しい運動の構築へ
『LEFT ALONE』……見返される現在(上野昂志)
物質化された「68年」のロードムーヴィー(丹生谷貴志)
『LEFT ALONE』製作ノート(井土紀州)
年表/索引
前書きなど
井土紀州 『LEFT ALONE』製作ノート 映画『LEFT ALONE』の構想は、二〇〇〇年の夏に熊野大学でスガ秀実氏と出会ったことがきっかけで始まった。全くどんな映画になるのか想像もつかなかったが、プロデューサーの吉岡文平と私は未知の企画に興奮し、早速実現の方向にむかった。当初はスガ氏だけでなくこの企画全体に鎌田哲哉氏も参加してもらう予定で、その年の十一月には鎌田氏とスガ氏の対話を撮影した。この対話は主に「花田・吉本論争」を巡るものだったが、その後、鎌田氏はスガ氏の六八年革命論にもニューレフトの歴史にも本質的に興味を持てないという理由からその後の撮影への参加を取りやめた。この十一月の撮影は本当に手探り状態で、被写体であるスガ氏や鎌田氏をどう撮影していいのか、私たちは全く把握できていなかった。二台のカメラを使用したのだが、一台は二人の人物を同じ画面に捉え、もう一台はスガ氏を撮っている。つまり、鎌田氏の顔をアップで捉えておらず、そのことが原因で後の編集作業ではかなり苦労することになった。 その後、私たちは二〇〇一年五月に東大駒場寮で開催された学生運動に関するシンポジウムに参加するスガ氏の姿を撮影したり、三月にはスガ氏が予備校生の頃に生活していたという豪徳寺の代々木ゼミナールの寮を訪ねてスガ氏自身への若干のインタビューを試みたりした。そんな撮影と平行して、スガ氏と対話してもらう人物への出演交渉を進めていたが、大西巨人氏と武井昭夫氏に出演を了承していただけなかったことは、今も残念である。 松田政男氏に東京・池袋でインタビューを行なったのは、二〇〇一年七月二〇日のことだ。この撮影での松田氏とスガ氏の対話は四時間にも及んだ。超人的な記憶力で、個人史と左翼史が交錯する様子を綿密に語る松田氏の姿は圧巻だった。しかし、私たち撮影隊はこの時点でも、いまだ撮影のやり方を確立できずにいた。一台のカメラで松田氏とスガ氏が同一フレームに収まるように撮影し、もう一台で松田氏とスガ氏の顔を交互に撮影している。そのため、松田氏の表情がエモーショナルになる瞬間を撮り逃していたりするのだ。その直後の七月三一日には、早稲田大学で勃発していたサークルスペース移転阻止闘争において、早稲田の非常勤講師だったスガ氏が学生と共に大学当局と戦う姿を撮影し、また、現場に駆けつけた松田政男氏の姿もカメラは同時に捉えている。 西部邁氏へのインタビューは、ニューヨークの世界貿易センタービルが崩落した九月十一日の三日後に行なわれた。新宿にある西部氏の事務所にお邪魔しての撮影は、西部氏の巧みで淀みない話術に聞き惚れているうち、あっという間に終わってしまった感じだったが、「西部さんの共産党体験と、その後ブントに行った経緯を聞かせてください」という私の不躾な質問に対して、西部氏がそれまでかけていた眼鏡を外し、私を見つめながら真摯に答えてくれたことは今も忘れられない。また、この撮影で、ちょっとした表情の変化も見逃さないように西部氏の顔を一台のカメラが常に追い、もう一台でスガ氏を追うというやり方が確立した。 同じ年の十二月十五日には、私と吉岡、そして撮影を担当した伊藤学や高橋和博も学生時代に自主管理運動に関わった法政大学の学生会館に柄谷行人氏を迎えて撮影が行なわれた。柄谷氏の話し方は独特のリズムを持っており、次の言葉が出てくるまでに一瞬の沈黙がある。その沈黙の間のヒリヒリとした緊張感。本来なら、その沈黙を埋めるようにして言葉を発していくはずのスガ氏も言葉を飲み込むようにして沈黙する。そんな沈黙の時間が印象に残る撮影だった。また、映画第一部の冒頭で使用した「スガ秀実は二重の意味で人の嫌がることをする人である」というユーモアを交えた柄谷氏の言葉には、その場では爆笑するだけだった私たちも、後になればなるほど実に意味深いものだったと何度も反芻させられることになった。 二〇〇二年四月一七日、滋賀県草津市にある津村喬氏の自宅を訪ねた私たちを待っていたのは、津村氏手製の四川料理だった。これが実に美味で、食にうるさい吉岡も感激し、津村氏と食材についていろいろと話し合ったりしていた。常に緊張感を持って撮影に臨む我々も、津村氏の手厚いもてなしを受けて、いつもとは違う調子で撮影を開始することになった。今にして思えば、それこそ私たちは津村氏の言う「リラクゼーション」の状態に導かれていたのかもしれない。この日のスガ氏はよく喋った。氏の六八年革命論の可能性の中心である津村氏を目の前にして、思いの丈をすべて吐き出している様子だった。また、撮影を終えて東京に戻る際、新幹線の切符を取るという私たちの申し出を受け入れず、私たちと一緒にポンコツの車に同乗して、ほとんど学生仲間のような感じで歌謡曲の話などをしていたスガ氏の姿も忘れがたい。 津村氏とスガ氏の対話を撮影し終えた私たちは、その後、長い編集作業の過程に入った。膨大な対話の記録を前に、私たちは正直なところ何度も途方に暮れた。仮説を立て、それを検証する、そんな行為の繰り返しだった。だが、何度も試行錯誤を重ねるうちに、次第に映画の構造が見えてきた。そして、二〇〇三年五月一〇日、映画と連動する形で進めてきた雑誌『重力02』の刊行を機会に、御茶ノ水のアテネ・フランセ文化センターで上映イベントを行い、パイロット版を上映することになった。 パイロット版上映後に出た様々な批判や批評を受け止めながら、いかにして映画を完成させるかを模索していた私たちの前に登場したのが花咲政之輔氏である。まず、花咲氏が主催する太陽肛門スパパーンの音楽と出会った私たちは、花咲氏に映画の音楽を依頼し、同時に、映画への出演も依頼した。早稲田のサークルスペース移転阻止闘争を中心的に闘った花咲氏に出演してもらうことで、映画が現在に開かれたアクチュアリティーを獲得できると確信したのだ。 二〇〇四年十一月、新たに撮影したパートをパイロット版に織り交ぜる形で、映画『LEFT ALONE』は完成した。そして、パイロット版上映後に起きた大きな動きのひとつが、本書の企画である。なかなか完成しない映画に粘り強く付き合いながら、膨大な対話の記録をこのような一冊の書物にまとめ上げてしまった明石書店編集部の大村智氏の編集力には本当に感服するほかない。 最後に、映画に出演してくださった方々、映画完成のためにご協力くださった方々、そして本書を世に送り出すために助力と理解を与えてくださった全ての方々に感謝を捧げたいと思います。本当にありがとうございました!(2005年1月27日)