目次
はじめに 哭くな眠るな、はるかなる我が八ッ場よ
第一部 長野原町の癒しの自然と水を追って
第1章 タニシよ、生き続けたいだろうね
八ッ場ダムに沈む水田/清水の感触/生息するタニシ、ドジョウ、サワガニ……/強酸性の川/ダム建設がもたらしたもの
第2章 ダムに沈む大地を耕す、不条理さ
急がれた補償基準合意の落とし穴/「国土交通省に約束を守らせる会」の発足/ダムに翻弄されたSさんの人生
第3章 先祖の苦労を思うと、ダムはむごい……
失うに惜しい豊かな住環境/野趣に満ちた山里の光景/枯れたワサビ田の水源/すべてが背中の農作業
第4章 構造的不況に曝されたワサビ栽培
祖先が築いた白岩沢のワサビ谷/貝瀬・駒倉への道は岨道伝い/土砂流に泣く東沢のワサビ谷
第5章 本当にダムは必要なんだろうか
木造校舎とのお別れ会/木造校舎の温もり/八ッ場ダムかるた/「ふるさと」を失う哀しみ
第6章 牧水の警告と“想像力の革命”
水没する三つ堂と石仏たち/水が涸れたよりも悲惨なものに/百八灯の精霊送り
第7章 “氷の花”“銭の花”は人の世の常か
社会にもある明暗/存続危ぶまれる過疎化の町/日々脅かされる住環境
第8章 手作り温泉たまご、作ってみませんか?
滋味あふれる温泉たまご/他の水没地の温泉施設
第9章 八ッ場よ、まだ眠るな
第10章 ここのさしみコンニャクは美味(うま)いのです
ダムのために転作もかなわず
第11章 八ッ場の限りある春
「現地再建方式」の甘い響き/山林に自由存す……
第12章 ここもまた“余白の春”か
国有地で進行する大規模工事/神経を逆なでする補償金目当ての面々/宅地六等級で成立/閉じられる“余白の春”的風景
第13章 こんなみじめなダムはない
イワナもサンショウウオも、皆死んだ/自然体の活きた流れ/お上の事には間違いはござりますまい/平成版、「谷中村滅亡史」/補償の落差に泣く
第14章 ……、そして、ホタルは消えた
ホタルの乱舞があった、二〇〇二年夏/本末転倒のホタルの引っ越し作戦を行った、二〇〇一年夏/濁ったたまり水の、二〇〇三年春/たった三〇匹に激減の、二〇〇三年夏/青みどろ浮かぶ、二〇〇四年初春/タニシよ、無事に年越しを
第二部 いらない! 八ッ場ダム
第15章 問う、逆説・まやかしの論理(一)——自然と共生できるか、ダムを造りたい人たちよ
エコスタックのいんちき/だるま落としの手法/八ッ場にも入りこむ、ダム企業ファミリー・環境部門/随意契約の多い「関東建設弘済会」/竣工式記念品となった高額出版物
第16章 問う、逆説・まやかしの論理(二)——防災ダム直下の学校なんて!
ビオトープもまた、ゼネコンの仕事づくり/オオムラサキの生息地を人為的に再生/ほんものの自然感覚を見失わせるのでは?/危険と紙一重の第一小の裏山全域/今度は「折の沢」のホタルの里計画/本当に安全なの? アンカーって/お寒いコスト削減/タニシの殻もさび色に/教育の場が危険防止の防災ダム直下とは?/建設会社の嘘、白日のもとにさらされる/タニシの死滅する日
第17章 あなた、この水飲めますか——八ッ場ダム予定地上流、その“あぶない水事情”
おろかしい酸性水の中和/牛糞まみれの汚水が……/パイロット農法により大量の農薬が流れこむ/「こんな水いらない」といってほしい/上流に大量の廃棄物/吾妻川への影響は?/政・業・官の癒着/受注額の〇・〇五パーセントを寄付/ダム湖さえできなければいい/縄文時代初期の遺跡どうする/常識で曇ったガラスを手で拭え
第18章 気がついていますか、水道料金のカラクリ——ダム建設は水没者だけの問題か
水道料金一トン三八〇円から二〇六〇円に/吾妻川の毒水は下流都県民が飲む/ダム建設費は水道料にはねかえる/「平準化」で値上げは必至/過大な費用対効果の試算
おわりに 変転する時代の糸口を信じて
前書きなど
はじめに 哭くな眠るな、はるかなる我が八ッ場よ ——君は舟なり、庶民は水なり。 ——水は即ち舟を載せ、水は即ち舟を覆す。 流れ行く水もまた単に流されているのではなく、日々思考しながら流れているはず。 眠らされてきた水=民もいつまでも無知ではない。山川草木みな然り、一木一草といえどもだ。 早晩“故に民の上に在る者は以て戒懼(かいく)せざるべからず”の感もなきにしもあらず。 隣接する長野県からの強風の手助けで脱ダムの世相下、水本来が持つ勢いにのって、耐えてきた民衆による“舟を覆す日”がもたらされる可能性も濃くなりつつある。 天下りによってもたらされ、網の目のようにはりめぐらされた公共事業のカラクリは、すでに明らか。 今や、民意が潮流となって瀬をはやみ、国を動かす時代なのである。民はいつまでも黙ってはいない。そもそも人間が水の流れに手を加え、自在に制御しようとしたことこそ、おごりではなかったか。 こうした脱ダム社会下、二〇一〇年の完成をめざす八ッ場ダム(群馬県・長野原町)は、すでに五二年目に突入した。水没は三四〇世帯。移転件数は長野原町内で四二二、吾妻町も加えれば四七〇世帯にもなる。 「八ッ場」と書いて「やんば」と読ませる特異なダム名は、ダムサイト予定地付近の大字川原畑、字八ッ場の、この小字名に由来すると考える。吾妻川左岸には「八ッ場沢」なる沢があり、吾妻川に垂直に注いでいる。場所は八ッ場大橋の手前、ダム提建設予定地近くの一四五号線にかかる橋下の清流である。橋の欄干の古びた石柱は文字面も欠損、磨耗していて読めない。語源には諸説がある。 思えば山には山の営みがあり、里には里の暮らしがあった。 人々はその村々の独自の地形に温められるように抱かれて、平穏に暮らしてきた。そうした最中の一九五二年、一方的にもたらされたダム建設の通告なのであった。 この間、明日の生活設計も立たぬままに水没民たちの多くは、自分の判断では何一つ踏み出せずに、半世紀にわたりダムに翻弄され続けてきた。 特別措置法に基づく補償金は、犠牲者として当然の権利補償なのに、金銭の放つ特有のくぐもりがアダとなって、下流の市民層とは、往々にして乖離させられてきた。 突き詰めれば紛れもなく人権問題と呼べる。 不要不急の八ッ場ダムは、なりふり構わずの利権確保が優先。費用対効果は無論、既設ダムの悪例が網羅された欠陥だらけの悪質公共事業の代表格である。 二一世紀は環境の世紀などと称されているのに、なぜこのダムが中断されず、今日もまた一歩と着実に進展してしまうのかと、いらだちがつのってならない。 大義名分的に繰り出される治水・利水というよりも、八ッ場ダム半世紀の歴史は、大物政治家の間で行きつ戻りつ揺れた、まさに政争と物欲の歴史と呼べる。 二〇〇一年六月の補償基準調印後、国土交通省の態度は一変し、水没住民の申し出に対して、それまでのように直ちに駆けつけなくなったと聞く。しかも「お上のいうことに嘘はありますまい」と信じきってきた約束ごとのいくつかも、反故にされ出した。 それらははるか一〇〇年近くも前の谷中村の悲劇の構図に通じまいか。目見開き、凝視すれば、まさに時代閉塞の状況が随所に見受けられる。(後略)