目次
序章
監視と急激な変化 本書について
第1章 監視を理解する
真意の探索/破壊と露呈/9・11以前の監視/監視の眼差しを理論化する/批判的問い/プリズム、展望、実践
第2章 監視の強化
目に見える犠牲者、消え去る自由/「テロリスト」の捕獲:疑いの文化/テロリストとは誰か/萎縮的風潮:秘密主義の文化/監視に動員される市民/監視を強化する
第3章 監視の自動化
監視を売る/監視技術/バイオメトリクス/IDカード/CCTVと顔認識/9・11以後の技術監視/結果と批判
第4章 監視の統合
全情報認知(TIA)/収斂、コード、カテゴリー/新しい統治/テロリズムと監視
第5章 監視のグローバル化
グローバル化、テロリズム、監視/グローバル化した監視/旅客機搭乗者データ/ハイジャックの歴史/ダンスのような進歩/グローバルな統合に向けて?/反監視のグローバル化/グローバルな監視?
第6章 監視への抵抗
糸を寄せ集める/難題に立ち向かう/社会的問い/新しい政治への取り組み/テクノロジーの市民権/疑念と秘密を超えて
エピローグ 日本の読者へ 9・11前後の日本の監視
テロのターゲットとしての東京/日本の監視を理解する/日本の監視情勢/日本における監視への抵抗/結論
前書きなど
監修者あとがき 本書は、David Lyon, Surveillance after September 11 (Blackwell Publishing Ltd., 2003)を全訳したものである。なお、この日本語版刊行に際しては、原著にはなかった「エピローグ 日本の読者へ」を新たに書き加えて頂いた。 著者デイビッド・ライアン氏は、カナダ・クイーンズ大学の社会学の教授であり、監視社会研究などをテーマにした著作・論文が多数あり、代表作の一つであるSurveillance Society: Monitoring Everyday Life (Open University Press, 2001)も既に訳出されている(『監視社会』河村一郎訳、青土社、2001年)。邦訳書として、他に『ポストモダニティ』(合庭淳訳、せりか書房、1996年。原書は、Postmodernity, Open University Press, 1994)、『新情報化社会論——いま何が問われているか』(小松崎清介監訳、コンピュータ・エージ社、1990年。原書は、The Information Society: Issues & Illusions, Polity Press, 1988)もある。 監視社会研究の第一人者であるライアン教授は、これまでも9・11との関連で監視の諸局面を検討した論考を精力的に発表してきた。たとえば、邦訳が出ているものに限っても、「九・一一以降の監視」清水知子訳、『現代思想』2002年9月号206頁以下(“Surveillance after September 11”, Sociological Research Online, No. 6, 2001)や「九・一一以後の監視——技術対『テロリズム』(仮訳)」田島泰彦=横内一美訳、『法律時報』2003年12月号52頁以下(“Technology vs Terrorism: Circuits of City Surveillance since September 11”, in Stephen Graham (ed.), Cities, War and Terrorism (Blackwell Publishing Ltd., forthcoming))などがある。本書はこうした論考等で示された知見を集大成したものと言えよう。 ライアン教授が活写した監視社会の新たな次元での展開は欧米をはじめとする世界的動向であるが、この日本も例外ではない。「エピローグ 日本の読者へ」でも批判的に触れられているが、私たちの国もいまこの「監視社会」に向かってまっしぐらに走っている(詳しくは、私も編者を務める『住基ネットと監視社会』日本評論社、2003年を参照されたい)。その象徴が、国民一人一人に番号(住民票コード)を振り、氏名、住所、性別、生年月日などの基本情報をコンピュータ・ネットワークで全国的、一元的に管理、運用する住基ネットの稼働(2002年)で、翌03年8月からは希望者にICチップ内蔵の住基カードの交付も含め、全面稼働した。 これは、1億数千万の国民全ての基本情報がコンピュータで繋がれ、巨大なデータベースが構築されたことを意味し、もしこれが漏れたり、不正使用されれば、その被害の規模と程度は想像を絶する。また、住民票コードをいわばマスターキーとして、さまざまな個人情報が照合・結合され、私たちの生活が丸裸にされ、住基カードが身分証明書として汎用性・普遍性を高め、将来「国内版パスポート」として携行が義務付けられる事態も十分想定できる。 さらに、主要道路数百ヶ所には、通過する車両をことごとく撮影する「Nシステム」と呼ばれる仕組みが稼働し、繁華街・商店街、駅、コンビニ、学校などには無数の「防犯カメラ」が設置・運用され、犯罪とは無関係な市民を撮り続けている。全国の自治体では、「生活安全」条例が相次いで制定され、また「共謀罪」の導入も検討され、市民への監視が強められつつある。個人情報保護法に代表されるように、市民の表現やメディアの取材・報道に「お上」が介入し、取り締まる立法も目白押しだし、『週刊文春』には二度にわたって出版の差し止めが裁判所によって命じられるなど表現への規制も強められ、イラクに派遣された自衛隊の取材・報道を統制するルールも定められ、メディアも「指定公共機関」として政府の有事対応に組み込む有事法制も整うなど、戦時的な情報統制さえ公然と始まっている(表現・メディア規制について詳しくは、私の『この国に言論の自由はあるのか』岩波書店、2004年の参照を乞う)。 こうした「戦争」や「言論統制」とともに、「監視」にひたすら向かう私たちの国の状況を考えると、前著『監視社会』に続く本書『9・11以後の監視』で示されるライアン教授の監視社会研究は、この国の状況を特に9・11以後の国際的文脈に位置付け、この国も含む現代世界の監視化の特徴的動向(強化、自動化、統合化、グローバル化)やその歴史的背景を理解する上で極めて有益な視点や素材を豊富に提供しているように思われる。 9・11以後の監視の強化と全面化、国内における国家的・中央集権的監視の傾向、グローバルな監視の連携、これらを含む反テロリズム立法による市民的自由の抑圧などへの鋭い警告だけでなく、「監視」を一面的に捉えることを戒め、「配慮」と「管理・統制」の両義性を備えるものであることを繰り返し強調していること、監視を社会的広がりと歴史的文脈に位置付け、「監視国家」論としてだけではなく「監視社会」論として社会的、歴史的に論じていること、これとも関わって、9・11を孤立的、断絶的に把握せず、「監視の連続性」を踏まえつつその歴史的意義(強化、全面化など)を押さえようと試みていることなど、ライアン教授の洞察は奥行きが深く、示唆に富んでいる。 技術偏重、疑惑と秘密にますます傾斜する現代の「監視」をどう克服していくか、第6章で示された議論は必ずしもそのオルタナティブの具体的な方向を提示しているわけではないが、信頼と連帯、公開性などの原理に基づく市民的自由や民主主義の復権と再構築が示唆されているように思える。それをどう実践し、「監視社会」を統御していくか、現代に生きる私たちに課せられた重大な課題である。2004年9月 田島泰彦