目次
はじめに——この本ができるまで(山本真弓)
言語的近代とは、なにか?/南アジアでの言語体験/「人工語」で育てられた赤ん坊の話/地域研究とエスペラント研究——「外部」に居続けるか、「内部」に迎えられるか/近代アカデミズムを超えて/わたしたちの試み
第一部 言語的近代の成り立ち
1 「韓国語」という呼称は、どこからきたのか
ひとつの言語に、たくさんの呼称!/呼称は、視点を表す/愛人(エイン)は、恋人(こいびと)!/宇宙人から見た地球語とは?/自称が分裂しているとき——他称の可能性について
2 〈通じる〉のに、別の言語/〈通じない〉のに、同じ言語
朝鮮語は、日本語の「方言」だった!?/政治が〈ひとつのことば〉を創出する/「数えられない」ものを、「数える」ために
3 国家の名まえが言語の名まえになるとき
「バイリンガル」は、「奇形」だった!/文法は、誰のため?/日本語が日本全国で通じる理由/東亜の共通語を目指して/つくられなければならなかった、日本語
4 ドイツ型ナツィオーンでもフランス型ナシオンでもなく——南アジアのネーション
ヨーロッパという〈他者〉/「ヒンドゥーとムスリムはふたつの異なるネーションである」/文字がことばを分かつ/アイデンティティの所在——言語と宗教をめぐって/近代化された多言語状況/南アジアの言語問題
5 ヒトが新しいことばを作るとき
「橋渡し言語」と「群れ言語」/もし、言語共同体という「群れ」からはじき出されたら/ユダヤ人は、ロシア人になれない/「ユダヤ教徒」から、「ユダヤ民族」へ/「民族主義」を超えるために
第二部 ことばについて、〈われわれ〉が語ってきたこと
6 ことばが〈できる〉〈できない〉とは、どういうことか?
「わかるけど、しゃべれない」「しゃべれるけど、読めない」/言語統計の読み方/「誰」が「なに語」を〈できる〉のか?/朝鮮語が〈できる〉日本人と、日本語が〈できる〉朝鮮人——その非対称性について/認定するのは、誰か?
7 ひとつではない〈母のことば〉
コミュニケーション・スタイルという考え方——言語を超えた観点/〈母語〉概念のイデオロギー性/話しことばと書きことば——なに語でものを考えるか?/ことばを、どのようにして、身につけるか?/〈母語〉神話から解放されるために
8 〈やさしい言語〉〈むずかしい言語〉とは、どういうことか?
9 あらゆる言語は、固有の価値をもつ
新語のつくり方/「ワニ」の動詞形——「ワニる」って、なに?/「国際的」は、非—国際的
10 「ことばの変化」と「ことばの乱れ」は、どう違うか?
言語は必要に応じて変化する/「男」(malino)は「女」(ino)から派生した
11 「翻訳する」とは、どういうことか?
誰のための翻訳か?/「エトランジェ」って、どんな人?——フランス語からの翻訳/翻訳者は創造者である
第三部 言語的近代を超える営み
12 近代言語学が扱ってこなかった言語
手話は、日本語ではない/音声言語に囲まれて——ろう者の多言語性/「身振り・手振り」と「完全な手話」とのあいだ/絶滅しない少数言語/ろう文化への視点
13 自分の意思で選ぶ言語
コトバの「所有権」/書斎で考案された言語/「血と地」から解放されるために
14 日本語を選んだ作家たち
植民地支配下の日本語作家/英語ではなく、日本語で/作家が言語を選ぶとき
15 〈国際語〉概念の解体と〈国際語〉の現実
〈国際語〉は、どこでも通じる?/Englishes——さまざまな英語たち
16 東アジアにおける〈国際語〉とは?
〈国際〉と〈internacia〉の違い/日本におけるエスペラントの担い手たち/「大東亜共通語」としてのエスペラント/エスペラントの「第二国語」化——北一輝のもくろみ
17 英語の〈国際語〉化と少数言語の関係——ヨーロッパの事例
小さきことばたちの権利/英語は少数言語を救う?/われわれにとって、言語とは、どのようなものなのか?
18 「われわれは、エスペラント人である」という主張
「少数言語」としてのエスペラント——ラウマ宣言/エスペラント自治共同体——〈民族〉のパロディー
おわりに——〈通じない〉けど〈わかる〉、〈通じる〉のに〈わからない〉
わたしたちの授業の試み/〈多言語状況〉を生きる意味
注
参考文献
あとがき
前書きなど
はじめに——この本ができるまで 山本真弓 言語的近代とは、なにか? 近代という単語は、「化」や「的」といった接尾辞をつけ加えることで、「近代化」「近代的」という使い古された日常用語のようになっていますが、言語的近代という用語はあまり耳慣れたものではないでしょう。ヨーロッパ近代は人間とことばとの関係がそれ以前のものと大きく変化した時代でしたが、そののち世界に波及した言語的近代の真っ只中を生きている〈われわれ〉にはその実感はありません。それというのも、〈われわれ〉は昔からたったひとつの、確固たる日本語というものを話してきたかのような錯覚のなかで暮らしているからです。 けれども、近代以前のヨーロッパでは、ラテン語だけが文法と文字を兼ね備えた「れっきとした言語」であって、それ以外のものは、決まった文法も書き方ももたない「話しことば」でしかない時代が続いていた、と言うと、ヨーロッパから遠く離れた「極東」に住む〈われわれ〉の多くは、びっくりすることでしょう。〈われわれ〉が多くの労力を払ってその習得に努めている英語も、わたしより上の世代の日本人にとっては学問するために避けて通れない言語であったドイツ語やフランス語も、まだ現在のような形を成していない時代のことです。当時のヨーロッパでは、ラテン語ではない「話しことば」は、聖なる言語であるラテン語に対して俗語と位置づけられ、それを教科書で学んだり、それで学術的な書物を著したりすることはありませんでした。 言語的近代とはヨーロッパにおいて、俗語が文字と文法をもち、それによって文学が書き表され、国民文学の形成とともに国家語としての地位を得るようになった過程とそれに伴う諸現象をいいます。それでは、近代という時代のなかで、〈われわれ〉は人間とことばとの関係をどのように捉えるようになり、その結果形成された〈われわれ〉の言語観とは、どのようなものなのでしょうか? たとえば、〈われわれ〉がことばの数を数えたり、表したりするときに、「何カ国語」とか「二カ国語放送」と表現し、〈われわれ〉のことばとは異なることばを指し示して「外国語」と言い表すように、〈われわれ〉の意識の奥深くには、「ひとつの言語はひとつの国家に対応する」という考え方が埋め込まれています。 この「一言語、一国家」という考え方は、言語的近代の根幹を成す言語イデオロギーのひとつですが、このほかにも〈われわれ〉の言語観を支えている言語イデオロギーには、次のようなものがあると言えるでしょう。1 ひとつの国ではひとつの言語が話されており、国家の言語(=国語あるいは国家語)はひとつの国のなかなら、どこででも通じる。2 方言は言語の下位概念であり、両者は明確に区別できる。つまり、違うことばならば〈通じない〉。〈通じる〉のは、ことばが同じか、あるいは同じことばの方言だからだ。3 ことばは、客観的(言語学的)基準によって、数えられる。4 ヒトがもっともよく〈できる〉のは、母語である。母語は自分の意思では選べない。したがって、母語は取り替えることができない。第二言語として習得したことばの能力は、母語話者にはかなわない。5 ことばが〈できる〉〈できない〉は、客観的に判断できる。ひとつの言語にはその〈全体〉というものがあり、〈全体〉を習得することこそが、その言語について〈完璧〉に〈できる〉ということである。6 母語はひとつである。バイリンガルのヒトはふたつの言語をまったく同じように〈できる〉のであって、このようなヒトは特殊である。7 ことばは基本的にみんな同じありようをしている。つまり、ことばは音声を持ち、地域に根ざしていて、地域社会を基盤に言語文化を形成している。8 ことばが変化するのはかまわないが、乱れてはいけない。「ことばの変化」と「ことばの乱れ」は違う。ふたつの言語を混ぜて使ってはならない。9 ことばはできるだけ多くの人びとに通じるほうがよい。したがって、大言語を小言語話者が学ぶのは当然であり、もっとも大きな言語が〈国際語〉にふさわしい。〈国際語〉は世界中で通じ、〈国際語〉では何でも表現できる。10 単一言語社会こそが、正常で望ましい。ことばが違うと人びとの意思疎通がうまくいかず、したがって、多言語社会とは問題を抱えている社会のことであって、そのような社会では共通語ができれば問題は解決する。つまり、世界共通語ができれば、世界が抱える問題の多くは解決する。 本書は、以上のような言語観を具体的事例や論理的思考を駆使しながら、ひとつひとつ検証しようと試みたものです。(後略)