目次
謝辞
はじめに
独身女性のイメージ
第一章 古典的な糸紡ぎ女(スピンスター)
余った女性、祝福された独身女性、および初期の新しい女性
第二章 外の世界に飛び出した独身女性
バワリー・ギャル、店員(ショッピー)、自由奔放な独身女性
第三章 痩せた怒れる者たち
(さらに新しい)新しい女性、ギブソンの女神、フラッパーの広告モデル、そして毛皮をまとった新しいスピンスター
第四章 怪しげな独身
仕事泥棒、リベットエロージー、そして神経症の夫ハンター
第五章 秘密の独身
家出娘のバチェラー・ガール、バービゾンでブリーカー・ストリート・ビートやブルースを聴きながら
第六章 スウィンギング・シングル
キャリア・ガール、主体的な若い女性、ピル服用者、危険に直面する一人暮らしの女性
第七章 今日の超現代的な独身女性と、彼女たちの苦楽
八〇年代、九〇年代の嫌味で冷たい女性、若妻、逃げ腰の独身女性、「ちょっと! そのベビーカーを私の歩道からどけなさいよ!」という独身女性の叫び
参考文献に関するメモ
前書きなど
はじめに 私たちはみな、独身生活についてさまざまなイメージを描きながら大人になる。私の場合、それはテレビのヒロインを参考にした色鮮やかな空想だったり、国連のツアーガイドやスチュワーデスのタイトな青いスーツを着た自分の想像図だったりした。当時のテレビのヒロインといえば、『すてきなアン』の主演女優マーロ・トーマスや、『おしゃれ探偵』のエマ・ピール、『バットマン』のキャットウーマン、『メアリー・タイラー・ムーア』のメアリーとローダの二人組などだった。しかし、西暦二〇〇二年ごろに独身生活を想像する若い女性には、もっと多彩で風変わりなモデルがそろっている。いずれもみな、独身女性らしい独特の衣装を身にまとったモデルたちだ。例えば『アリー・myラブ』のアリー・マクビールは、幻覚に悩むミニスカート姿のキュートな弁護士である。『ブリジット・ジョーンズの日記』の「シングルトン」〔独身者〕ブリジット・ジョーンズは、独身生活や、サイズの合わない超ミニのスカートに潜むマゾヒズムをはっきり認識している。『SEX AND THE CITY』の四人組は、セックスを意識した装いでレストランに陣取り、医者や既婚女性さながら、セックスの臨床的な側面を語りあう。 数ある生活様式を比べてみても、独身生活ほど、文化のなかで描かれたイメージに深く影響されているものはない。いや、イメージに取り憑かれているといったほうが適切かもしれない。それと同時に、当の独身女性のほうも長年、大衆の空想のなかで主役を演じてきた。認める、認めないにかかわらず、私たちの大半は独身女性という存在に固定観念を抱いているし、誰だって次のようなお決まりの推測にふけることがある。なぜ彼女はあんなふうになってしまったのだろう? どうしてあの状態に耐えられるのか? 退屈で孤独に違いなく、ひどい悲しみに陥りかねない——つまり子どもをもてないかもしれない——状況を、どうしたら立て直せるのだろう? タフな「独身派」で「フェミニスト」のサラ・グリムケが、もはや結婚は「女性が生きるための必須条件」ではなくなったと書いたのは、一五〇年前のことである。以来、数多くの女性がグリムケに同意するようになった。しかし、このような女性たちは世間の人々の心に、お決まりの同情まじりの推測や蔑み以上の感情を引き起こした。独身女性はつねに、多くの男女の不安と怒りをかきたて、図らずも恐怖を与えてしまうようなのである。 歴史家のニナ・アウアーバックは学問的観点から次のように指摘している。「[独身者が与える]脅威の性質は変化するものの……恐れられるのが人類の最高かつ最も誇らしい本能に反した価値観の伝染であることに変わりはない」 ある女性は数年前『ニューヨーク・タイムズ』紙に、次のようにはっきり書いている。「自立している女性は関心を引くものである。彼女が何を欲しがっているのか、みな不思議に思う」 このような紋切り型の独身女性のイメージの伝達役を長年務めてきたのがメディアである。古いメディアも、私たちになじみのあるメディアも、あらゆる形式のメディアがこの役割を果たしてきた。記者も小説家も映画製作者も、その時代の独身女性像を特殊利益団体として安っぽいニックネームで括り、世間に紹介するという作業を繰り返した。スピンスター、ワーキング・ガール、フラッパー、ビートニク、キャリア・ウーマンという具合である。もちろん、このような作業の背景には、新たな社会現象を発見し調査するという目的が存在する。しかし、その過程で、新しい独身女性像はたびたび意地悪な漫画や風刺画の材料にされた。 一般的な独身女性像の大半はひどく陰鬱で貧しく魅力がないように描かれたため、少しでもそのような描写に当てはまる女性は実生活でつらい思いを味わった。しかし、彼女たちの小さな世界には次第にありとあらゆるタイプの独身女性が現れはじめ、ついにはもっと大きな世界を要求する権利があることに気づく。また、独身女性の憂鬱が描かれたり、涙ながらの懺悔が紹介されたりする反面、数多くの自立した勇敢な独身女性が大いに人生を謳歌していた。そして、それはいまも続いている。だからこそメディアは、このような独身女性や、いまだに彼女たちの「病気」とみなされている状態について報じつづけるのである。(後略)