紹介
極限下での犯罪は許されるべきか
武田 泰淳『ひかりごけ』のモチーフとなった事件の真相
26年前に刊行され、ベストセラーとなった『裂けた岬』の待望の改訂版!
英語版『The Survivor―The confession of cannibalism by the Old captain―』(電子書籍)と同時発売!
26年前に刊行され、ベストセラーとなった『裂けた岬』の待望の改訂版です。さらに『裂けた岬』英訳版(電子書籍)との同時発売となります。第二次世界大戦中に徴兵され、徴用船の船長として物資の輸送任務に就いていた黒岩亀吉(仮名)は知床半島沖を航行中に嵐に合い、真冬の知床の小屋に部下のシゲとともに取り残されてしまう。飢えと寒さの極限状態の中、先に餓死したシゲの遺体を船長は口にしてしまう。シゲの肉で体力を回復した船長は、流氷の上を渡り、知床を脱出する。新聞記者であった著者が30年間におよぶインタビューを経て書き上げた、人間の業を問い掛ける一冊。
目次
プロローグ
約束
戦雲
遭難
番屋
食人
煙り
生存
発覚
裁判
光輪
訃報
エピローグ
船長の「取材ノート」から
老船長との十五年―あとがきにかえて
再版のためのあとがき
船長の軌跡
前書きなど
太平洋戦争まっただ中の昭和十八年(一九四三年)十二月四日、北海道根室港を発ち小樽へ向かった日本陸軍暁部隊所属の徴用船「第五精神丸」=七人乗り組み=が、知床岬沖合で大シケに遇い、消息を絶った。
それから丸二ヵ月経過した昭和十九年二月三日夕、知床岬から二十キロメートルほど離れた羅臼郡羅臼村ルシャ(現在の羅臼町岬町)漁業、野坂初蔵(七一歳)宅に、外套の上に筵を巻きつけた異様な男が一人、倒れこむように入ってきて、助けを求めた。
男は徴用船の船長であると名乗り、難破してほかの乗組員六人は全員死亡したが、自分だけが無人の番屋で生き延び、歩きづめに歩いてここまでたどり着いた、と述べた。
真冬の知床岬の凄さを知っている野坂初蔵夫婦は驚愕した。
知床半島は根室海峡とオホーツク海峡を裂いて角のように突き出た長さ六十五キロメートルにおよぶ細長い岬で、中央にウイーヌプリとも呼ばれる知床岳、それに硫黄岳、羅臼岳など標高千メートル級の火山連峰が背骨状につらぬき、海岸線は切り立った断崖がそのまま海中に落ちこんでいる。
漁師が漁に出られるのはせいぜい五月中旬から八月中旬までの三ヵ月間ほどで、この短い夏場に岬の浜辺に建てられた番屋に泊まりこみ、ウニやコンブを獲る。
だが、この時期を過ぎると知床の海は荒れ模様になり、冬場は突風と猛吹雪が半島を吹きさらすのである。
遭難した船からたとえ脱出、上陸できても、雪と氷の極寒の大地を生き抜くことはとうてい不可能と思われた。
船長奇蹟の生還は初蔵から知円別部落会長の大国徳兵衛(六四歳)に伝えられた。徳兵衛は翌日、船長の書いた書面を持ってさらに十六キロメートル離れた羅臼村市街の標津警察署羅臼巡査部長派出所の山口光雄巡査部長(四四歳)のもとへ届けた。
〝不死身の神兵〟の帰還に村内は沸き返った。
地元の村長以下が急ぎ救援隊を組織して救出に向かい、船で船長を羅臼村市街まで運んだ。
船長は北海道日高管内浦河町から迎えにきた暁部隊第三船舶団司令部傘下の六一八三部隊の佐瀬曹長一行に引き渡され、小樽市の暁部隊第五船舶輸送司令部で遭難報告をしたのち、故郷の北海道A町に帰還した。
それから三ヵ月あまり、北国に短い夏がめぐってきた。
五月十四日夕、一年ぶりに知床半島ペキンノ鼻へ出かけた片山梅太郎(六五歳)は、自分の番屋内に何者かが入り込んだ痕跡があるのを見てはたと膝を打った。奇蹟の神兵がここで一冬暮らしたに違いないと直感した。
近くの岩場を調べたところ、リンゴ箱が捨てられており、その中に人骨と見られる骨がぎっしり詰まっているのを発見、船長が何者かを殺して人肉を食べたとの疑いを抱いた。
通報を受けた標津警察署は色めき立った。過日生還した船長の仕業とにらみ、釧路地方裁判所検事局と緊急協議の結果、川越釧路地方裁判所予審判事をはじめ小保方検事局次席検事、北海道庁警察部刑事課・紺野警部補、地元標津警察署・皆川署長、上田司法主任、山口巡査部長らが現場へ急行した。
検証の結果、船長が番屋内で何者かを殺し、その屍を解体して食人したのは明らかとして、道庁警察部は船長をA町の自宅で殺人、死体損壊、死体遺棄の疑いで逮捕した。
奇蹟の神兵は一転、地に堕ち、人肉を食らって生き延びたおそるべき軍属として、批判を浴びた。軍属とは、軍人でなく軍に所属するものを指す。
逮捕された船長は取り調べにたいし、食人はあっさり認めたものの、殺人はあくまで否定した。
検事局は船長の供述のほかは証拠を得ることもできないままに、船長を死体損壊罪で起訴した。
裁判を担当した釧路区裁判所は、非公開のまま審理を行った結果、「飢餓に迫られたとはいえ人肉を食して難を免れたのは社会生活の文化秩序維持の精神に悖る」としながらも、「犯行時の被告人は心神耗弱状態にあった」として減免し、「懲役一年」の実刑判決を言い渡した。
食人行為により裁判にかけられ有罪の判決を受けたのは世界の裁判史上、これが唯一といわれる。ちなみに一九八一年、パリで起こった日本人青年によるオランダ人女性食人事件は、被告が犯行当時、心神喪失だったとして不起訴処分になっている。
船長が裁かれた当時、南方戦線は敗戦につぐ敗戦で、ことにガダルカナル島などでは食糧を失った日本兵が戦友の屍を食う状態が続いていたといわれ、この事件も戦時中に起こった軍属の不幸な犯罪として一審の審理通り有罪が確定。新聞などに報道されることもなくひそかに幕を閉じた。
事件から四十余年―、船長は重い十字架に押しつぶされそうになりながら、
「なぜ生きてしまったのか」
と悔やみ続けた。
小説「ひかりごけ」(武田泰淳作)はこの船長をモデルに、文学と創作劇という二重の虚構の中に船長を放りこみ、首に光りの輪を灯すことによって人間の原罪を問うたが、現実の船長の首には光りは灯ることもなく、すべてを陥穽の闇に塗りこめてしまった。
船長は生きている自分を悔やみ、食べてしまった少年に心の底から詫びながら、長く辛い道程を息をひそめて歩き続けた。
人間が突如、極限の世界に放りこまれたら、どうすればいいのか。これは一人の日本人男性がたどった想像を絶する飢餓地獄との戦いである。
再版のためのあとがき
『裂けた岬』(恒友出版)を発刊したのが一九九四(平成六)年四月、筆者が北海道新聞社を定年退職した直後のことである。同時に全国の各新聞がこの発刊を社会面トップで報道する騒ぎになり、その反響の大きさに戸惑いを覚えたものである。
船長と初めて会ったのが一九七四(昭和四十九)年冬。取材に取材を重ねたが、それから十五年後の一九八九(平成元)年暮れに船長は亡くなった。すべてを書き上げて出版できたのはその五年後。続いて同年秋に『知床にいまも吹く風』を出した。
出版から二十六年の歳月が流れた。今回、柏艪舎代表の山本光伸さんから再度の出版を勧められた。しかも、同時に英文でも出したい、という。思わず息を呑んだほどの衝撃だった。ただただ感謝の言葉しかない。
実はこの本は、二度も文庫化されている。『裂けた岬 難破船長食人事件の真相』(幻冬舎アウトロー文庫、一九九八年)と『「ひかりごけ」事件 難破船長食人犯罪の真相、新風舎、二〇〇五年)である。
今回は表題を『生還―「食人」を冒した老船長の告白』と改めた。全体の構成は変わっていないが、『知床にいまも吹く風』の一部を追加した。また「船長との『取材ノート』」を初めて掲載した。私の取材当時の心境の一端がおわかりいただけると思う。
いまなぜ「食人事件なのか」と問われそうだが、いまなおこの地球上では、戦争や紛争が絶えない。これにより食糧を失い、飢餓に陥ったり、栄養失調で餓死する人も多いという。
人間が生きる上でもっとも重要な食糧。それを失った時、人間はどうあらねばならないのか。人間とは何か、生きるとは何か、というもっとも原初的なテーマがいまも我々に問いかけているように思えてならない。
二〇二〇年(令和二年)新春 札幌のマンションの書斎で 著者