目次
プロローグ
1 駅と時計
2 映画とトレイン・シェッド
3 駅と映画館
4 映画と廃線鉄道
5 駅と美術館
6 駅と商業施設
7 駅のホテル事情
8 駅とトイレ文化
9 映画と階段効果
駅の子供たち
映画の中の鉄道員
駅の悲劇
連鎖する駅の記憶
映画でゆく駅の旅
架空の駅と実在の駅
終着駅とテルミヌス
エピローグ
前書きなど
プロローグ ―記憶装置としての駅―
本書は交通新聞に一回/月、二十九回に渡り連載したエッセイ「シネマと鉄道―駅と映画のエピソード―」を加筆修正し、再編成したものである。それ以前にも交通新聞には駅と映画をテーマとする五本の連載をする機会を頂き、連載期間も六本で通算、二〇九回/一四三ヶ月に及んでいる。
私の二十五年間のJR人生は、そのほとんどが札幌駅とともにあった。札幌駅及びその周辺開発と、開発後の運営に携わり、その間、公共施設としての駅のあるべき姿、駅と都市のあるべき関係などを追い求めていた。そして、少しでもそれらに関する示唆を得たいとの思いから、趣味の映画に駅が重なり、駅が舞台の映画(以下、駅映画という)を繰り返し観ることが多くなった。
そんな状況の中、駅に関する多くの書籍や文献などには随分と助けられた。
中でも、「駅/栗いくつ」(幸田文著)、「知の庭園/19世紀パリの空間装置」(松浦寿輝著)、「都市の記憶」(トニー・ヒス著)などは今も貴重な示唆を与えてくれる。
「駅というものは、汽車や電車が発ったり、着いたりするだけのものだのに、なんだかおかしな力をもっている。〈中略〉だから私たちは駅ではなんとなく感じっぽくさせられる。都会の大きな駅でも寒村の小駅でも、駅にはなにか感じがある。」と幸田は語っている。
松浦はフランスの作家マルセル・プルーストがその代表作「失われた時を求めて」の中で論じた駅と美術館のアナロジーを紹介している。
「駅と美術館は、何かしらの『距離』が還元不可能ななまなましさで露出しているという点で共通する、二つの場所である。〈中略〉出発にせよ、到着にせよ、こことあそことの間の『差異』が一挙に露出する現象であるという点では共通しており、駅は、ここにいる者をあそこへと一挙に連れ出す想像力の奇跡的な飛躍をもたらす装置である。〈中略〉美術館の壁から立ち上がってくるのも、『差異』としての裸形の創造行為である。」
ヒスは毎日五十万人以上の人々が往来するニューヨークのグランド・セントラル駅を歩くときの感覚を次のように説明する。
「この巨大な空間を歩くとき、いつも私の感覚には穏やかな変化が起こり始める。〈中略〉思考や感情、視覚、聴覚、嗅覚、そして触覚や平衡感覚など、体に備わっているあらゆる感覚が呼び覚まされ、まとまって機能するようになる。〈中略〉そこは私たちの感覚を増幅し、普段は機能していない内的な精神活動の存在に気づくことのできる場所でもある。」
これらの想いに共感し、改めて駅が舞台の多くの映画を観ることで、駅が人々の人生の記憶装置であるとの確信を深めた。
人々は街で生活し、街を記憶し、文化を育む。街は人々の拠り所で、何世代もの人々の記憶を引き継ぐ装置である。その街の中にある駅には、ヒス等が語るように人々の心を開放し、人間本来の感性を喚起して研ぎ澄ます、不思議な雰囲気がある。駅に降り立ち、時代を刻む古い駅舎に対峙すると、そこを拠点に発展した街と日本の近代史、そしてその中で生きてきた他ならぬ自分自身と向き合っているような感覚に襲われる。旅立ちと到着の場所である駅では、実に多様な人々が往来し、様々な出会いと別れ、喜びと悲しみなどが交錯し、織り成される。人々の堆く積まれた人生の断片と、その想いが深く刻まれた駅は、人々の記憶を引き継ぐ街の中で、記憶装置としての役割の一翼を担う最もふさわしい場所だと言えるだろう。
「記憶は刻印の“集積”ではなく、“生成”しつづけるダイナミックなシステムであり、創造である。」(「記憶/『創造』と『想起』の力」港千尋著)とも言われる。
その所為か、長年に渡り、駅映画を採り上げて、駅と映画を論じていると、映画が描く駅の本質が、私の記憶を呼び覚まし、連鎖する様々な事柄を想起させ、新たなエピソードが生まれるのを何度も経験した。私の場合、刻み込まれた映画の記憶は、映画の物語よりも、断片化したイメージの様々な記憶であり、それらが連想を紡ぎ出す。
例えば、映画『ニキータ』(90・仏/リュック・ベッソン)を採り上げた場合、パリ・リヨン駅のレストラン“ル・トラン・ブルー”が舞台になる。
コンコースの雑踏の足元から植物模様を施したアール・ヌーボー風の華奢な階段が巻き上がり、それを登ったところに入口がある。中に入ると、天井画が描かれた豪奢な内装にアール・ヌーボー風の装飾的な家具や照明が並ぶ。
そこで秘密工作員訓練所のボブが主人公ニキータの二十三歳の誕生祝いに注文したシャンパン(シャンパーニュ)がテタンジェ社の“コント・ド・シャンパーニュ・ミレジメ”である。アール・ヌーボーにシャンパンとくれば、シャンパーニュの華と讃えられるペリエ・ジュエ社の“ベル・エポック”の記憶が甦る。その瓶に描かれた美しいアネモネの花はナンシーのアール・ヌーボーの工芸家、エミール・ガレによるものだ。
そしてシャンパンとアーティストと言えば、あの藤田嗣治の顔が浮かぶ。マム社のシャンパン“マム・ロゼ”のミュズレ(王冠)に描かれた薔薇の花のデザインは藤田の手によるものだ。更に、マム社に藤田とくれば、フランスのランスにあるマム社の敷地に建てられたフジタ礼拝堂のあの閑静な佇まいが懐かしい。
それに駅とアール・ヌーボーになると、アール・ヌーボーの建築家エクトール・ギマールによるパリ・メトロ駅出入り口の植物を思わせるあの穏やかなデザインも忘れられない。
この事例では、記憶の連鎖は駅のレストランの階段とワインから始まるが、こうした駅映画から紡がれるエピソードは、断片的に想起され、建築、アート、食、文学……と雑学の分野を選ばず、拡散する。
本書ではこうした駅映画の記憶に想起される断片化されたイメージを繋ぎ、雑学の連鎖から生まれるエピソードを、“駅と映画の雑学ノート”と題して紹介したい。