目次
はじめに ………7
第一部 私の中の深田久弥
第一章
帯広エーデルワイス山岳会の誕生 ………12
深田久弥の招聘―ニペソツ登山 ………15
忘れ得ぬ人 ………38
留萌への転勤 ………45
雨竜沼から暑寒別岳へ ………56
駒ヶ岳に登る ………61
地域研究―「東大雪山群」 ………75
音更山と石狩岳―富良野岳・芦別岳・大千軒岳 ………88
東京「詰め」 ………98
第二章
深田久弥の死 ………101
小冊子「アルピニスト」の誌評 ………105
大島亮吉のこと ………109
山渓新書「北の山」―北海道55座の記録と案内― ………120
深田志げ子の序文 ………128
函館での人々 ………132
双葉社「わたしの一名山」―「幻の百名山」 ………138
深田久弥生誕の地 大聖寺と山の文化館 ………149
志げ子夫人のこと ………155
深田久弥は生きている ………162
時は流れて ………166
第三章 富士写ヶ岳と白山登山記
「日本百名山」原点の山・富士写ヶ岳に登る ………171
深田久弥―ふるさとの山 白山に登る ………180
第二部 「日本百名山」以降に登った北の山―深田久弥紀行
「日本百名山」その後 ………190
ニペソツ登山の感激 ………194
暑寒別岳 ………202
駒ヶ岳 ………207
音更山と石狩岳 ………210
大千軒岳 ………216
あとがき ………223
深田久弥年譜 ………230
前書きなど
はじめに
深田久弥という名前を知ったのはいつの頃だったのか、定かには思い出せないのだが、昭和三十四年に発行された『雲の上の道』の初版本を持っているから、多分それ以前から頭の中にはあったに違いない。ちょうどその頃から朋文堂の『山と高原』に『日本百名山』の連載も始めている。その活字は目にしている。はなはだ心もとないが、『山と高原』を定期購読していた記憶がないのである。書店で目にしていたのか。
『雲の上の道』は、昭和三十三年、深田久弥が隊長となりヒマラヤのジュガールヒマールを踏査した遠征記である。僕の座右の書となっている。何度も読み返した。この本から文章術を学んだ。文章は素直に書く、という要諦だ。ここぞというところは何度も書き写してみたりした。そうすることによって間合いなどが学べる。学んだつもりである。
話が横道にそれたが、この「日本百名山」の連載は、昭和三十八年までの四年二ヶ月におよび、昭和三十九年、新潮社から、美麗な化粧箱に入った『日本百名山』が発刊された。翌年、読売文学賞を受賞し、僕が手に入れたのもこの年で、六刷とある。何をのんびりしていたことか。憧れの深田久弥とあいまみえることとなったその年である。
しかしそれ以前に僕等とニアミス的なことはあったのだ。
昭和三十六年八月初旬。深田久弥は、新冠川から幌尻岳、戸蔦別岳を経て戸蔦別川へ下るルートで憧れの日高に入った。主目的は幌尻岳である。北大山岳部員のサポートで、画家の山川勇一郎や橋本誠二等が同行している。
その紀行文「幌尻岳に登る」を道新で読んだ。僕等も当初は八月初旬に戸蔦別川から戸蔦別岳を経て幌尻岳を目指す(深田パーティーとは逆のルート)はずであったが、予定が狂って下旬になった。予定通りに入山していたら、あるいは、その途上で深田パーティーとドッキングしていたかもしれなかった(もしそれが叶っていれば、どれ程ドラマチックなことであったか)。遡行をしながら、ワラジなどが落ちていれば、それは深田久弥の履き古したワラジに違いないなどと話しあって登った記憶がある。
「日本百名山にニペソツが入ってないね」
僕と平野明さんは、帯広の居酒屋で杯と共に、そんな会話を交わしていた。
この平野さんという人物、詳しくは後述するが、山岳会設立を機に知り合い、終生に渡って付かず離れずのお付き合いをさせていただいた友人である。当時、北海道放送帯広放送局(HBC)に勤務されていた。
「けしからん」
「いや、本当にけしからん」
二人の話はヒートアップしていった。
「深田久弥は登っていない山は、風聞だけでは書かないそうだ」
「それは、しかし当たり前のことではないか。第一、書きようがない」
「じゃ登ってもらいましょうか」と僕は平野さんに杯を勧めながら言った。
五十年前のことである。
この辺のことは、少し整理をして書かなければならない。
あとがき
正直、深田久弥のことを書こうなどとはつゆほども思ってもいなかった。第一書けない。書く材料もない。だから書きようがない。そう思っていた。
それが昨年(平成二十六年)、久弥生誕の地、石川県加賀市大聖寺を訪れる機会を得、深田久弥山の文化館(以下「山文」)を訪ねて、「深田久弥と山の文化を愛する会」(以下「愛する会」)の人々に会い、僕の心の奥底にあった久弥崇拝のともし火が勢いを増したのであろうか。富士写ヶ岳に登ったこともいろいろな意味で導火線になった。山は動かない。千年も二千年も今のままだ。いや永遠に。久弥が十一歳の時に初めて登った富士写ヶ岳。百年後に、僕はその同じ道を辿った。
そして来年はまた大聖寺を訪ね、寺院群を歩き、久弥の墓に詣で、今度は白山に登ろうと心に決めた。決めたことを今年、実践した。
そのようなプロセスだから、資料を集め出したのは今年に入ってからである。調べてみると、関係したものがそれなりに手元にある。
久弥の書簡類や写真などはもちろんであるが、志げ子夫人からや新家佐和さん(久弥の妹)からの書簡などもあった。その他、関係してくれた方々が、その時々の写真などを、きちんと僕の手元に送ってくださっていたこともありがたかった。纏める事が出来そうな気がしてきた。
テーマは「日本百名山」以降に深田久弥が足跡を残した北海道の山とし、久弥が書いた紀行記も一本に纏めて所収することとした。これはすべて久弥最後の自選紀行集「山頂の憩い」に収録されているので、如何なものかという思いはあったが、このテーマに興味がある方もおられるのではないだろうか。是非ともそのように編集したい。
ただそれには版権の問題もあり、ご長男の深田森太郎さんのご許可がいる。幸いというか昨年大聖寺を訪問した折に森太郎さんとお会いする機会があり、ご挨拶は済ませていた。直ぐにお手紙を書いてお願いをした。
森太郎さんとはお電話でのやりとりのすえ「今(この種のことに)いろいろと引き合いが多くて(苦慮している)」とおっしゃりながらも、「どうぞご自由にお使いください」と快く、本当に快くご許可をくださった。
この本の出版に際し最初にお礼を申し上げなくてはならないのは深田森太郎さんである。深田先生の後押しがあったのかなと頭を下げた。
さて「骨格」が決まって出版に向けて動き出した。
文書のデジタル化の大半を今田美知子さんにお願いをした。日本山岳会北海道支部在籍で常任委員でもある。「お手伝いいたします」と爽やかなご返事。ありがたいことに苦手なパソコンに向かう時間が減った。今田さんのお陰である。
そんな作業を進めながら、ところでどこから出版するのかと、この構想を相談していた友人から聞かれ、そうだ出版社を決めていなかったのだと、あらためて最難関の壁があったことに気がついた。深田久弥というネームヴァリューがあっても、このご時世である。簡単に出版してくれるものかどうか分からない。
僕自身も今の出版業界の内情を知らないわけではない。しかも山の本という特殊なジャンルだ。
一昨年「田中澄江の歩いた北海道の山」(自著・平成二十五年・北海道新聞社刊)の出版を手掛けてくださった北海道新聞社の編集担当者から「今、活字離れがある中、本の出版は大変ですよ。特に山の本は厳しいです」とのお話を伺ってもいた。
さてどうしたものかと、本来なら途方に暮れるところであるが、幸いに少しだけ僕には「あて」があった。柏艪舎さんである。出会いは平成十八年にさかのぼる。「凍れるいのち」(川島康男著・平成十八年・柏艪舎刊)という本の出版記念会に呼ばれていて、そこで本を手にし、それが柏艪舎という札幌の出版社からのものであることを知った。
「凍れるいのち」は、北海道学芸大学函館分校(現北海道教育大学函館分校)の山岳部が、大雪山の旭岳で大量の遭難死を出した時の、ただ一人の生存者野呂幸司の自伝である。四十五年の歳月を経て、この大惨事を明らかにした一冊として話題にもなった。野呂さんとは「北の山の栄光と悲劇」(一九八二年 岳書房刊 自著)の出版に際し、多くの資料の提供を受けていたことがあり、旧知の方である。
この出版社はいい本を出すなあと思い注目をしていた。「人間を見据えていく」という理念も好きだった。その柏艪舎をふと思い出したのである。
早速会社を訪ねて深田久弥の出版企画を話した。担当の方は若い山本哲平さん。
「深田久弥を知っていますか」答えはノーだ。
「名前だけでも知っていますか」それもノーだ。
そんな会話がまず山本さんと交わした最初であったように記憶している。山本さんは山はやらないが、百名山がブームになっていることは知っていた。彼は答えに慎重ではあったが、この企画について興味を持ってくれたようだ。
とにもかくにも、まずは深田久弥のレクチャーから始めなくてはならない。家にも来てもらって、久弥の本を見てもらい、「山文」が製作した「深田久弥物語」というDVDを観賞してもらったりもした。
深田久弥はいろいろな意味で凄い人だということを理解してもらうのにそれほどの時間はかからなかったように思う。とにかく荒稿を見ていただいた。
多くの難題をクリアして企画が正式にスタートしたのは六月に入ってからである。それからは急ピッチで作業は進んだ。
今更のことだが、富士写ヶ岳と白山は極めて深田久弥との繋がりが深い。富士写ヶ岳は「日本百名山原点の山です」と日本山岳会石川支部の大庭保夫さんが言われた。その意味は本文に詳しく書いた。白山については何も申し上げることはないであろう。久弥ふるさとの山である。余談になるが、これに福井の荒島岳を加えて「深田三名山」と僕は勝手に思っている。荒島岳は福井の名峰で、福井は久弥が中学時代を過ごしたところだ。
その富士写ヶ岳や白山に案内してくださったのが大庭保夫さんご夫妻であった。大庭さんという誠に頼もしい岳人がいたことでこの本の出版はなった。これらの山に登っていなければ本書は間違いなく世に出ていない。ともし火が燃え盛ることもなかったはずだ。遅い遅い山岳開眼と本書への道を開けてくださったのが大庭さんであり、「深田久弥のことを書くかもしれません」と最初に胸のうちを明かしたのも大庭さんであった。大庭さんも当然のごとく久弥をこよなく愛し、「山文」の経営にも参画し、「愛する会」のありようにも一家言を持っている方だ。大庭さんがいる限り「山文」も「愛する会」も盤石であろうという印象を持った。
僕が最初に大聖寺を訪れた時、大聖寺の深田久弥ゆかりの地をご案内いただいたのが真栄隆昭さんだった。文中に何度か登場されるが、こういう方がいるからこそ深田久弥は、今も脈々と生き続けているのであろうと、その行動に頭の下がる思いであった。真栄さんは深田久弥にお会いしたことがないという。それゆえか、生前の久弥を知り、共に山へ行き、言葉を交わしたことのある僕を羨ましいとたびたび言われるが、しかし真栄さんの前に出ると僕などは、ただのちっぽけな深田崇拝者に思えてならない。大聖寺の山の下寺院群を二人は何度も歩き、その案内をする真栄さんを見ていて、久弥を思う気持ちは足元にも及ばないと思った。「深田久弥・その人と足跡」とか「ぶらり大聖寺」などという秀逸な冊子を含めて多くの著書を上梓されているが、商業出版をなさらずに、すべてに慎み深く簡易本になさっている。それらは極めて質が高い。真栄さんがいたから、腰をすえて僕の知っている深田久弥を書こうと思った。
このように久弥生誕の地にしっかりと根付いている大庭さんや真栄さんなどから見れば、僕などはただひとつまみの青二才に過ぎない。そのことを二度の大聖寺訪問で改めて思い知った。
これ以上書いていくと「あとがき」が「あとがき」でなくなる。
もうペンを置こう。
本書が世に出たのは偶然の産物であるかのように思っていたが、決してそのようなことではないと、今、最後の章を書いていて感じた。
有形無形の後押しが、遠い空の彼方からあったように思えてならないのである。それは何か。僕にもわからない。
久弥の容貌が好きだ。物腰が好きだ。精神が好きだ。文章が好きだ。山を彷徨する姿勢が好きだ。ただそれだけで纏め上げた。
深田森太郎さん。大庭保夫さん。真栄隆昭さん。今ちゃん。また本書に引用させていただいた多くの方々の当時の文章。
そのすべてを的確にみちびき出してくれた編集の山本哲平さん。
あらためて本書が「無用の用」たる書にならんことを願いつつ、それらの方々に心からお礼を申し上げ、あとがきにかえる。
平成二十七年八月九日 猛暑の中の書斎にて
滝本幸夫