紹介
                    1930年代と50年代にヘミングウェイが体験したアフリカ……。
『老人と海』を書き上げた彼はなぜ、アフリカへ向かったのか。
ヘミングウェイの愛したアフリカを訪ねる!
ヘミングウェイは生涯、アフリカを心の底から愛し、
アフリカの大地と自然に魅了されていた。
そして『老人と海』を書き上げると、翌年、ふたたびアフリカに旅立った。
『老人と海』のサンチャゴは夢の中でアフリカを見ていたが、
作者、ヘミングウェイは自ら、アフリカに出かけていったのだ。
アフリカの大地と自然のいったい、
何がヘミングウェイの心をとらえていたのか。
それはケニアとタンザニアと、ヘミングウェイの体験した
固有の土地と人びとと共に、アフリカ大陸というあの大きな大陸
そのものの風土に心を奪われたように思われる。(「はじめに」より)
                 
                
                    目次
                    はじめに
空からの眺め
風景の中を歩く
一期一会 人と所と
風土病の恐れ
神々と呪術の世界
ベナン断章
オン・ザ・ロード
キリマンジャロの麓でパリを想う
ベナン前後 パリにて
ジヴェルニーを訪ねて
旅を終えて 『老人と海』再読
あとがき
                 
                
                    前書きなど
                    はじめに
ヘミングウェイが生前、書き上げた最後の小説が『老人と海』だ。キューバの海に漁師として生きたひとりの老人の物語。しかし、この海の物語の最後は実に不思議な終わり方をしている。老人は夢の中でライオンを見ていたという。
道のむこうの小屋では老人はふたたび眠っていた。依然としてうつ伏せのままだった。少年は傍らに立って、老人を見つめていた。老人はライオンの夢を見ていた。(『老人と海』より、今村楯夫訳、以下同)
なぜ、キューバの漁民だった老人がアフリカのライオンの夢を見ていたのか、その答えは読者のひとりひとりに委ねられている。
なぜ、アフリカなのか。それもまた謎だ。
しかし、分かっていることはある。ヘミングウェイは生涯、アフリカを心の底から愛し、アフリカの大地と自然に魅了されていた。そして『老人と海』を書き上げると、翌年、ふたたびアフリカに旅立った。『老人と海』のサンチャゴは夢の中でアフリカを見ていたが、作者ヘミングウェイは自ら、アフリカに出かけて行ったのだ。
アフリカの大地と自然のいったい、何がヘミングウェイの心をとらえていたのか。いや自然だけではない。アフリカでの人びととの出会いもまたヘミングウェイの心を動かした。
それはケニアとタンザニアと、ヘミングウェイの体験した固有の土地と人びとと共に、アフリカ大陸というあの大きな大陸そのものの風土に心を奪われたように思われる。
ヘミングウェイは二度、アフリカを訪れている。最初は一九三三年一二月から翌年の三月までの約三ヶ月と二度目は一九五三年八月から翌年の二月末までのほぼ半年という長い期間のアフリカ滞在である。最初と二度目の間には約二〇年の隔たりがあり、その間に流れた歳月でアフリカは大きく様変わりをした。三〇年代の前半はアフリカのほとんどの国がヨーロッパ諸国の植民地として支配されていた。第二次世界大戦を経て、五〇年代は脱植民地化に向けて、さまざまな国に独立の機運が高まり、事実、ヨーロッパ支配からの解放と独立を果たしていった。
ふたつの異なる時代の歴史的な変化と人びとの意識的な変容は、『アフリカの緑の丘』(一九三五年)と死後に出版された、二度目のアフリカ体験を描いた『夜明けの真実』(一九九九年)、後にその改訂版として出版された『キリマンジャロの麓で』(二〇〇五年)を比較してみるといかに大きいかが明らかとなる。時代と人びとの変化はヘミングウェイ自身の中でも同様に起きているのだ。
ヘミングウェイは『キリマンジャロの麓で』の中で次のように語っている。
「……彼らは、このトラックは信用していないのだ」とポップは言った。
「彼ら」とは当地の人びとのことであり、ワツのことだ。かつて彼らはボーイと呼ばれていた。ポップは依然、ボーイと呼んでいる。しかし彼があの人たち全員を知っていたわけでないし、年齢的にボーイなのか、彼らの父親が子供だったときに、出会って知っていたかは分からない。二〇年前、私も彼らのことをボーイと呼んでいたし、私も彼らも、そんな権利なんか私には何もないということすら考えもしなかった。今だって、私がたとえこの言葉を使っても、きっと誰も気にしないだろう。しかし、事態は変わり、今はそういう呼び方はしないのだ。誰もがひとりひとり自分の責務をもち、誰もが自分の名前をもっている。名前を知らないというのは非礼だし、それはずさんさの現れだ。(『キリマンジャロの麓で』より)
一九三〇年代と一九五〇年代の時代の違いは大きい。ヘミングウェイも二〇年後にアフリカを再訪して、そのことに気づいている。無意識的な優越感と差別意識に気づいたとき、人はもっと他者に対して謙虚になる。それがどこまで深められていくかは人それぞれだろう。
人種も肌の色も異なり、言語も習慣も宗教も異なる人間同士が互いに人間としての尊厳を認め、尊敬しあうことはどこまで可能なのだろうか。ヘミングウェイが体験した一九五〇年代から、ときはすでに六〇年が過ぎ、彼が出会ったケニアとタンザニアの人びとは、これから私が訪れるベナンとは地理的にも民族的にも、言語も、また英領と仏領と植民地時代の支配していた国も異なる。でもやはりわれわれアジア圏から見れば、それらはいずれもアフリカ大陸に存在する国であり、あの広大な大陸の一部を成している。
ヘミングウェイが体験したアフリカと私がこれから体験するアフリカはどこで共鳴し、どこで大きな差異を生むのだろうか。あるいは同じアフリカ大陸にありながらインド洋に面した東アフリカのケニアやタンザニアが大西洋に面した西アフリカのベナンとは共通性をもたない、まったく異質な国なのだろうか。あるいは一九五〇年代にヘミングウェイが体験し、見聞したアフリカと二一世紀、六〇年の歳月を経て、私が見るアフリカには普遍性や類似した特徴があるのだろうか。そんな漠然とした疑問を抱きながらも、アフリカに一度は行ってみたいという願いを長く抱いてきた私の動機はヘミングウェイが描いてきた「アフリカ」にあった。さらにヘミングウェイが見ることや体験の出来なかったアフリカを私なりに身をもって体験し、発見してみたいという強い願望に促されての旅立ちとなった。
加えて、私にとってのアフリカはピカソの芸術をあるとき根底から変えてしまった源泉に潜んでいる秘密を自分の目で確かめてみたいという思いがあった。「アヴィニオンの娘たち」における新たな試みの背後にアフリカの彫刻とセザンヌがおり、それは当時、批評家から揶揄をこめて「立体派(キュビスト)」と呼ばれるものであったが、後にこの新たな手法に基づく絵画は広く、素直に「立体派」と呼ばれるようになった。
パリで出会ったふたりがそれぞれ画家と作家と異なる道を歩みながら、アフリカに魅了され、ひとりは造型で、ひとりは文字言語で作品を築き上げていったその軌跡の延長にスペイン内戦の悲劇がそれぞれの捉え方で描かれ、そこには平和を希求する心があった。ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』や短編「橋のたもとの老人」とピカソの「ゲルニカ」だ。このふたりの芸術家たちに導かれるように私の旅は始まる。
あとがき
「ベナンに行きませんか」と声をかけられ、一瞬、マレーシアのペナンと勘違いをした。
「いや、西アフリカにある国です」という答が帰ってきた。
西アフリカのベナン。ベナン共和国。
アフリカを訪ねることは長い間の夢であった。「キリマンジャロの雪」を読んで以来、半世紀が過ぎ、もはやその夢を叶えることはできないだろうという諦観に近い思いを抱いていた矢先の誘いに、西アフリカであろうと、未知の国であろうと、ともかくアフリカに違いはないと誘いに乗った。
かつての船旅とは異なり、ジェット機での旅、時間は圧倒的に短くなったとは言え、東京を発ち、パリ経由でのアフリカ行きはなかなか時間がかかる。パリまでの一二時間に加えて、パリからベナンには七時間。行きはパリで一泊、帰りは三泊のパリ滞在となり、中継点とは言え、パリ滞在をもうひとつの目的地として充分楽しむこととなった。
まさに芳醇な文化の栄華を誇るパリと、一方に未だに手つかずの自然をとどめ、機械文明による汚辱から免れ、純朴かつ質素な生活を営み続けているベナンとの差異は大きい。
アフリカのサバンナの空のもとでアフリカの自然にしみじみと愛着を覚えながら、若き日に過ごしたパリの都会生活に深い郷愁を覚えたヘミングウェイの、この心の振幅を自分なりに体験してみたいという思いもいつしか大きく膨らんでいった。
ベナン共和国についてはこの国がブードゥ教の発祥の地であること、また奴隷貿易の拠点のひとつであったことなどに関する雑駁な知識はあったが、その実態や歴史的な背景には無知であった。ベナン滞在中、いたるところでブードゥ教の神々を奉り、供犠を司る絵や寺社を目にすることになった。また奴隷貿易にかかわる奴隷市場から「積み出し港」に至るまでのさまざまな痕跡や遺跡を目にし、祈りのこめられた樹木や悲しみが染み込んだ広場などを見、その歴史を知ることとなった。
またルフィン・ゾマホン駐日ベナン共和国大使の母国であり、ビートたけし(北野武)の名を冠した日本語学校あるいは小学校などいくつかの学校が作られている国である、という程度の知識はあった。ベナン訪問を前に時間的なゆとりもなく、出発直前に入手した『ゾマホンも知らないゾマホンの国 ベナン共和国イフェ日本語学校の今』(ゾマホン・ルフィンと小国秀宣共著)を機内に持ち込み、それがベナンに関する基礎知識となった。ベナンで出会ったふたりの優秀な若者がともに「たけし日本語学校」の出身者であることを知り、帰国後、ゾマホン著『ゾマホンのほん』を読み、ビートたけしとゾマホンの偉業を再認識した。
一方、パリからアフリカへ、アフリカからパリへという円環の旅は私の中で思いがけない連続性を呼び覚ますこととなった。パリのセーヌ川のほとり、エッフェル塔の近くに二〇〇六年に開館したケ・ブランリ美術館は西洋文明とは異なるアフリカ、アジア、オセアニア、南北アメリカの少数民族の固有の文明・文化・芸術を集めた極めて特異な美術館である。それは西洋中心主義からの脱却を示した新たな美術館であり、人間が原初的にもつ創造力から生まれた芸術を理解し、正当に評価することを促しているように思われた。私はアフリカ、それも特にベナンとその周辺から生まれた芸術作品を集中的に見た。そこで私はピカソのひとつの原点を確認し、アフリカの芸術に接することへの大いなる期待を抱いた。
ベナン共和国、コトヌーの外れにある芸術家村に滞在した日々、そのコロニーを運営するドイツ人の芸術家兼学芸員兼コーディネイターのシュテファン・ケーラー氏とそこで居住をともにする国際的にも知られたコンセプチュアル・アーティスト、ジョルジュ・アデアグボ氏と出会い、ふたりが収集したアフリカの仮面や彫刻を始めとするさまざまな芸術品に接することとなった。そこには至るところに芸術品がさりげなく置かれ、溢れるようにあったのだ。
私はその芸術の宝庫を目にして、ピカソを魅了し、新たな芸術形式を生み出す源泉となったアフリカ芸術のもつ根源的な造型性を知ることとなった。それまでの知識としてあったピカソがもつ空間的に力強い構造の秘密は具体的かつ即物的に明らかにされたように思う。白日にさらされ、青空の下で、ピカソに与えた霊感を、時空間そのものが磁場となって放たれているような濃密なエネルギーを私は感じることができた。
ヘミングウェイはパリ在住のピカソと交流があり、彼のアトリエを訪ねてもいる。キーウエストの自宅(現在、ヘミングウェイ博物館)には棚にピカソから送られたネコの彫像がそのまま残されており、またキューバの邸宅(現在、国営のヘミングウェイ博物館)の壁には闘牛の顔が刻まれた白い皿が飾られている。これもピカソからの贈り物だという。新たな芸術の在り方を求めて生涯、創造力が枯渇することのなかったピカソと、生涯、実験的作家として新たな表現法を求め続けたヘミングウェイという二〇世紀の偉才であるふたりがどんな会話を交わしたかは記録されていない。ただ、このふたりがともにアフリカに魅了されていたのは偶然ではないだろう。
私はアフリカ、西アフリカの小さな国ベナンの空港に降り立ち、ベナンの人たちの出迎えを受け、海辺の椰子の林に沿った道を車に揺られて薄暮の中を進んでいった。アフリカの大地は満天の星明かりと三日月に映し出されて雄大だ。翌日から、この大地と海の恵みを受けた人びとの日常を知り、それを支える神々に対する畏敬の念と信仰心に触れることとなった。
芸術家村ではアフリカの自然と風土から生み出された造型物を自らの目で確かめ、肌で感じることができた。芸術家村を自らの手で作り上げ、ベナンが生んだ偉才ジョルジュ・アデアグボを物心ともに支え、さらに若き芸術家たちの育成に力を注ぐシュテファン・ケーラー氏の歓待を受け、彼の木目細かな準備と献身的なサポートによって私のベナン体験は実に豊かで刺激的なものとなった。芸術家村は広大な不毛な砂漠の一画に自らの手で一本、一本を植樹し、草花を植え、美しい楽園のごとく創り上げられ、いたるところに仮面や彫像、彫刻がさりげなく配置され、コロニー自体が芸術作品の宝庫であり美術館であった。
木戸を開けると通路の両側に顔を彫った彫刻がぽつんと置かれて、訪ねる人びとを迎える。右手の彫刻の前には飲みかけのジュースの瓶が置かれていた。誰かが無作法に放置したものだろうと思い、あるときそれを別のところに移しておいたら、翌日、ふたたび瓶がもとのところに置かれているのを発見した。それは日本の村の入り口に立つ道祖神に捧げる供物のようなものかもしれないと気づいた。
ジョルジュ・アデアグボの住んでいる部屋は台所とオープンスペースの回廊のある建物にあり、彼が保有する数々の仮面や彫刻は数十点、あたかも放置でもされているように雑然と置かれている。しかし、その一つ一つはパリのアフリカ芸術品を並べたアンティーク・ショップに持ち込まれれば、いずれも逸品として店のショーウインドウを飾るものであろう。ふと足をとめて凝視させる見事なフォルムをもち、自立的な芸術性をそれぞれが発揮しているのである。私は毎日、このオープン・ギャラリーとも呼べる回廊と庭で、仮面や彫像や秘儀に使われる衣装を眺めてしばしの至福の時間を過ごした。衣装は極彩色の華美で具象的な絵模様とさまざまな色合いの刺繍が施され縫い上げられている。その代表的な衣装は足元に黒色のカメレオンが刺繍され、頭の部分に向かってさまざまに色を変えながらカメレオンが描かれている。
カメレオンがベナンにおいて何やら象徴的な意味をもっていることはパリのケ・ブランリ美術館のベナン芸術コーナーですでに気づいていたが、その意味を知るには至らなかった。
ジョルジュの説明ではカメレオンは神々の使徒である。神に願い出て、まずは黒色から別の色に変えてもらいたいと願い出て、神は別の色を与えた。そうして七つの色に次々に変えてもらい、身分を高めていき頂点を極め、緑色を得ることになるが、どの色にも満足せず、結局、最初の色に戻り、下まで降ろされてしまったという。ただ変幻自在に色を変えることの力を与えられ、以後も神々の忠実な僕(しもべ)として仕えてきた。秘儀に用いられる荘厳な衣装はこのカメレオンの姿を刻むことで、自ら在る己をそのまま甘受すべし、という教えを人びとに諭しているのだ。ジョルジュの説は大いに説得力をもち、民俗的な伝承を正しく解釈していると言えよう。虹の七色をもつカメレオンの寓意性は諸説あるようだが、いずれも神のもとで使徒として仕えているという点ではみな一致しているようだ。ピカソの素描やエッチングにはさまざまな犬や牛や馬などの動物に加えて、鳩や梟などの鳥などが描かれているが、カメレオンはいない。少なくともこれまで私は目にしたことがない。おそらく彼の芸術生活にはカメレオンは存在しなかったのだろう。あるいはこうしたアフリカの民間伝承を知る機会がなかったのかもしれない。
ピカソの芸術そのものを大きく変えることとなったアフリカの仮面と彫刻との出会いと喜びを心の内に秘め、私のアフリカの旅はヘミングウェイに始まり、ピカソを経て、ヘミングウェイに終わった。
アフリカからパリに戻った私はふたたびヘミングウェイのパリにおける芸術的な体験に引き戻され、パリ時代に彼の心をとらえ、深い感動を呼び起こした画家、モネの世界に誘われることとなった。オルセー美術館からモネが晩年を過ごしたジヴェルニーへの旅だ。
さりげなく声を掛け、アフリカの旅を実現させてくれた畏友、竹尾茂樹氏(明治学院大学教授)には改めて心からお礼を申し上げる。彼の長年の友人、シュテファン・ケーラー氏の用意周到な準備によって、人びととの出会いとベナン各地の訪問が実現し、芸術家村での美しい自然と数々の芸術作品によって私のアフリカ体験は深遠になった。
「キリマンジャロの雪」を夢見た旅は、甘美でロマンティックな思いから始まったが、現実に体験したアフリカの旅は、その夢を遥かに超えて豊かで濃密な時間を刻むこととなった。
二〇一四年春 旅の余韻を心にとどめて
今村 楯夫