目次
はじめに 4
文芸翻訳とは 9
基礎編
基礎的な心得 28
注意事項 32
誤訳について思うこと 43
実践・中級編
『Silence』について 52
実践・上級編
『Black Ass At the Cross Road』 64
上級編解説 90
参考までに――『十字路の憂鬱』 110
あとがき 138
付録・山本光伸 訳書リスト 142
前書きなど
はじめに
私は剣道家になりたかった。中学一年から剣道をはじめ、どういうわけか大学には剣道部がなかったために空手部に籍を置き、卒業し、結婚してからは剣道一筋だった。実業団、弟の大学、警察、町道場と年中無休で渡り歩いて稽古し、三十代から約二十年間、道場を持って子供たちに剣道を教えていた。剣道が縁でというわけではないが、三島由紀夫さんの楯の会と関係を持ったのもこの頃である。
剣道ではしかし、なまじのことでは生活が成り立たない。しかも自分はそんなに強くない。そこで生活のために、と思って始めたのが文芸翻訳だった。そうは言っても、剣道が主体の生活だから、翻訳に身の入るわけがない。暇なときしか翻訳の仕事はしない、と豪語(!)していたのだから推して知るべしだろう。
ただ、翻訳という作業は全く苦にならなかった。それどころか、楽しくてならなかった。下訳時代に四百字詰め原稿用紙七百枚を、一日きっかり手書きで五十枚ずつ、二週間で仕上げたことがある。原稿を届けたときの、相手のプロの翻訳家の驚き顔は今でも覚えている。余談だが、私はつねに万年筆を使っている。いつでも消すことのできる鉛筆がどうしても好きになれなかったのだ。
剣道は別にして、物書きになりたいとも思っていた私は、作家に卒業証書は要らないとばかりに大学三年で一回退学した。しかし一行すら書くことができない。仕方なく半年後に同じ大学を再受験した。そんなことがあったとは、家族はもちろん、大学の友人たちもまったく知らなかったはずだ。
剣道に明け暮れていたところへ舞い込んだ仕事が、『ゴッドファーザー』だった。翻訳家として一本立ちする前だったため、下訳のような形で、しかし印税折半というものだった。それでも、みなさんご想像のとおり、三十代になったばかりの私に大金が転がり込んできた。俄か成金とはまさにこのことだ。遊び半分で仕事をしていたようなやつのところへツキが回るのだから、当然、面白くない人もいただろう。
少し本腰を入れて翻訳に取り組もうか、などとしおらしく考え出したころに例の三島事件が勃発した。当日の朝、テレビニュースで事件を知った家内の慌ただしい声で起こされた私は、本当に腰が抜けるほど驚いた。ほんの数時間前に、我が家(アパート)から市谷の例会に出て行った楯の会会員もいたからだ。
するうちに長男が誕生し、どういう風の吹き回しでか、全二十五巻から成る某伝記事典のチェッカーを頼まれてほとんど運動もできないほどに忙殺されることとなった。
その挙句に、私は体調を崩してしまった。何が原因だったかは今もってわからない。いわゆる自律神経失調症で、不安神経症および閉所恐怖症と診断された。それからの五年間は私なりにけっこう辛かった。
閉所恐怖があるために、電車にも飛行機にも乗ることができない。車にはまったく興味のなかった私だが、移動手段として仕方なくオートバイの免許を取得した。バイク野郎はほぼ例外なく北を目指すようで、私もその例に漏れず、友人三人で初めて北海道に向かった。そして、朝靄に煙る苫小牧港をフェリーから望見したとき、私は老後をここ北海道で過ごすことになると確信したのだった。
週二回、鎌倉で剣道を教え、週一回東京の学校で文芸翻訳を教え、バイクでのツーリングに熱中しながら、翻訳の仕事を精力的にこなしていった。北海道へのツーリングは毎年五、六回。十日のあいだに二往復したこともあったくらいだ。その間にもつねに十冊以上の仕事を抱えていたから、かなり忙しかった。それでも、おわかりのとおり、好きなことだけをやっているのだから紛れもなく幸せな日々だったと言えるだろう。
ただ、私は翻訳家という職業に何とはない後ろめたさをいつも覚えていた。他人の褌で相撲を取っているような気がしてならないのだ。したがって、どんなに書評で褒められても、所詮、原文がよかったからさとついひねくれて考えてしまう。そんなことから、私はオリジナルの小説を書くようになった。作家になりたいというよりも、自分の文章力がどこまで通用するか見届けたいという気持ちが強かった。
さまざまな新人賞に応募し、かなりいい線までいって、担当の編集者から手紙をもらうようになった。しかし私としては、自分の文章力を確認したいという所期の目的は達成できたわけで、何となく拍子抜けしているときに、いよいよ北海道への"移住"の時期が到来した。すでに五十三歳になっていた。
私は当時、六十歳になったら晴耕雨読の生活に入ろうと思っていた。その夢だけは、七十歳を過ぎた今でも捨ててはいない。私にとっては、それがそもそも北の地へ渡ってきた最大の理由なのだから。
最初の七年半は単身だった。家内は東京で仕事があり、息子二人も大学生だった。が、新天地での希望に燃える私はそんな不便も気にならず、札幌で知り合った知人の勧めもあって、文芸翻訳家養成校・インターカレッジ札幌を間もなく立ち上げた。それから約二十年、インターカレッジ札幌は毎年生徒数百人ほどを数え、支障なく機能している。
そして今から十年ほど前に、出版社、(株)柏艪舎を立ち上げた。当初の目的は、立派に育った翻訳家の卵たちに、地元北海道で仕事を与えたいということにあった。しかし理想と現実は大違い、大勢の方にひとかたならぬ迷惑をおかけしてしまい、私にとって六十からの人生は文字通り茨の道となった。だが、その苦労話をすることが本書の目的ではない。
ここまで、読者には関係のないと思われる個人的な事柄を述べてきたのは、翻訳であれオリジナルであれ、文は人なり、と私は信じているからだ。つまり、書いた文章を読めばその人がわかるということであり、その人の文章と生き方は密接な関係があるということだろう。これまで何冊か翻訳に関する本を読んできたが、その文章から書き手の素顔が透けて見えたような気がしたことがない。言い換えれば、どれも血肉の通っていない、小手先だけの翻訳論、技術論にしか思えなかった。それが、この"小さな親切、大きな迷惑"行為の底にある思いなのだ。ご理解いただければありがたい。