目次
いそしぎ 3
ぐじ 37
みるなの木 79
突進 95
猫舐祭 119
ねじのかいてん 133
三角州 163
青野浩の優雅でもなければ
退屈でもないありふれた午後 179
自著解説 217
前書きなど
自著解説(解釈の手だて)
『いそしぎ』
どこの国のいつの時代の話なのか、書いているぼくも明確にはわかりません。こういう小説はそんなことはどうでもいいのです。物語の舞台は静かでおだやかな、どこか遠い田舎の小さな町です。そこではこれからなにかの「まつりごと」がはじまるようで、その当事者らしい一軒のありふれた家庭が話の中心になります。なにが行われているのか、もう読んだかたはわかっているでしょうが、この手のアンソロジーは解説から目をとおす人もいるので、この物語だけは内容の解説はやめておきます。
この短編は『SFアドベンチャー』に書きましたが、ひどく感銘してくれた編集者に、これを長編にしないか、とすすめられました。少し考えましたが、無理だと思いました。説明のない沢山出てくる道具やしきたりなどのちょっと風変わりなネーミングは、その後ぼくがこのテの小説で書いていく趣味のガジェットになっていったようです。
『ぐじ』
現代を描く小説には自分の体験したこと、見たこと、出会った出来事、などがそのまま反映されることが多くあります。
旅の多いぼくは、こういう知らない「どこか」へ彷徨うように迷いこんで、そこで思いがけないことに出会う、ということが結構実際にあります。泊まった山の湯の深夜の露天風呂でその宿のまだ若いおかみさんと一緒になってしまった、などというエピソードは実際に体験したことです。書斎派ではないモノカキの有利なところで、自分が実際に見てきた場所の描写などはそのとおり書けばいいのですから簡単で楽です。そういういくつかの体験的風景と、そういうところで出会ったいろんな人々や出来事をイメージのなかで紡ぎあわせて物語をつくっていく、という典型的な小説のひとつです。「ぐじ」とはなにか。小説では明確にあかされないままですが、解説でもあえて書かないでいることにします。ぼくが書くものでは珍しい心理恐怖小説ということになるでしょうか。
『みるなの木』
ちょっとした発想の断片が短編小説にそのまま描かれていく、ということがよくあります。これは一晩で書いた小説です。ストーリーも登場人物も、さして深い思考もなく、頭のなかに思い浮かぶまま、ガシガシと一気に書いていった話です。もしそういうのがあるとしたら「SF民話」などというカテゴライズができるかもしれません。
自分で作りだしたこの短編で描いた世界をぼくは妙に好きになり、その後いくつもの関連したような短編を書いていき、やがてさらに何年かして長編の『ひとつ目女』(文春文庫)に発展していきました。
『突進』
ワンアイデア・ワンストーリーの短編で、これも一気に書いてしまったものです。こういう短編を書くときは、自分がその話の主人公になってしまい、次々にあらわれる厄介な問題に、自分ならどうしていくか、というふうに考えていく、という書き方をしています。そうなると物語風景のなかでいつか小さな自分が四苦八苦している光景が見えてきて、あらかじめ何もストーリー展開を考えていなくても話が勝手に動いていってくれるのです。この短編は後に『週刊朝日』の連載小説となった『走る男』という長編になっていきました。
『猫舐祭』
「みるなの木」の系譜に入る小説でしょうか。いつの時代のどこともしれない場所での話ですが、どうやらだいぶ未来のことらしい。かつてとんでもない戦争があって、その後あらゆるものが荒廃したあとの物語です。
この「未来戦争」のあとに、人間や機械や動物や、あとはなんだかわからないものが目茶苦茶にからみついて、なんとも危なっかしいまま蠢いている、というシチュエーションがぼくは好きなようです。ここにも編集者や読者にはよく「シーナワールド」と名づけられる不思議なヘンテコなネーミングのヘンテコなものが沢山出てきます。これはそういうヘンテコなものに囲まれながら途方に暮れて原稿用紙に話を紡ぎ出していく小説のひとつで、このアンソロジーを編むために忘れていたこの話の展開を心配しながら久々に読み返し、ちゃんと短編小説としての「おち」がついていたので安心しました。
『ねじのかいてん』
今度の二冊組のこのセレクションのなかではもっとも遠いむかしに書いた小説です。言い方をかえると作家稼業として紡ぎだした小説のなかではかなり初期のもので、はたして現代に通用するだろうか、とやや不安に思いながらもラインナップした短編です。
『小説現代』に一九八九年に発表して以来久しぶりに読んだのですから自著編纂としてはなんとも乱暴な話です。「若書き」の懸念もありましたが、まだSFの短編も書いていない頃の小説ですから、それなりに自分には意味がある小説なのでした。書いてある世界についてのくわしい解説は掲載誌やそれらをまとめた単行本には普通書かないものです。読む人が勝手に何がおきているのか想像してくれればいいのですが、このアンソロジーでは野暮と知りながら、この短編の内側の解説を少ししてしまいます。小説の構成は、なにかの秘密機関にとらわれてしまった無実の罪の人の独白のようになっていますが、作者としてはそのような戯画的なお話は装いで、人間の精神の裏側を意図して書いたつもりです。この小説を書いている当時、ぼくは別の雑誌で多重人格者のことを書くためにいくつかの精神病院のルポをしていました。その強烈な取材体験が発想の基本になっています。
『三角州』
書き出しは「ぐじ」と似ています。これまで体験してきた実際の行動やそのおりの風景などの描写から話は入っていきますが、そこで見たり触れたりするものが、どうもあまり一般的でない。なんかヘンだなあ、というところから話はどんどん異世界が舞台になっていく。書いているぼくが好きな展開のひとつなのです。この世界は侵略されているわけです。そして侵略者たちがかつて暮らしていた故郷の惑星(たぶん)を模擬的に造っている、ということが次第に明らかになっていきます。テラフォーミングというやつです。そういう意味ではとても素直な小説だと(作者)のぼくは思っています。ここに出てくる戦争用に造られたドロイドのようなものが後の長編SF『チベットのラッパ犬』(文藝春秋)では重要な役で登場します。
『青野浩の優雅でもなければ退屈でもないありふれた午後』
ずいぶん長いタイトルです。この二冊組アンソロジーの中では(Ⅰ巻)の最後の『問題食堂』とともに単行本未収録の短編です。
舞台は今世紀の中頃のトーキョーをイメージしています。その頃の超能率化した会社に勤める平凡な会社員の退社後帰宅途中から帰宅した自宅の夜までを追っていった話です。これは長編をイメージした小説の第一章の感覚もありました。しかし実際にスタートした長編はもっとドロドロして複雑化した、東京湾全体を舞台にした話になり、今四苦八苦しながら(二〇一二年)連載の途中です。このありふれた、でもとても刺激にみちた未来のフツー社会をそのまま連載小説の舞台にしておいたほうがらくだったかなあ、といましきりに悔やんでいます。