紹介
内容紹介:【坂口安吾 著】
『投手殺人事件』(一九五〇年)
職業野球の名投手が何者かに殺害された。愛人、スカウト、真犯人は誰か?
『心霊殺人事件』(一九五四年)
心霊術の実演中に名家の主人が殺される。そのトリックを奇術師が暴く。
『正午の殺人』(一九五三年)
流行作家が自宅で死亡。居合わせた美人編集者に殺人の容疑がかかるが……。
『南京虫殺人事件』(一九五三年)
巡査父娘は女性の変死体を発見。腕には麻薬の注射痕があり、
現場には南京虫(女性用の腕時計)が落ちていた……。
『能面の秘密』(一九五五年)
老舗旅館で男性が殺された。盲目のアンマの証言が事件のカギを握る。
『アンゴウ』(一九四八年)
矢島は古本屋で偶然自分の蔵書を見つける。そこに書かれた見覚えのないアンゴウの正体とは……?
【東 直己 書下ろし】
『坂口安吾盗難事件』
〝坂口安吾〟がこの世から消える!? F・ブラウン作『ミミズ天使』を髣髴とさせる軽妙な一作!
目次
目次
投手殺人事件 6
心霊殺人事件 72
正午の殺人 121
南京虫殺人事件 152
能面の秘密 179
アンゴウ 215
坂口安吾盗難事件 東 直己 238
前書きなど
はじめに
もちろん、実作者として、また読者として、小説には「解説」など不要、と思っている。特に坂口安吾の作品は、ボロン、と放り出すように置かれている物を、なんの予備知識なしに読んでこそ、独特の感触が味わえる、と思っている。
さはさりながら、たとえばこういうこともある。
上方由来の落語の演目に、「千早振る」というのがある。これは物知り知恵者を自負している岩田の隠居が八五郎に、百人一首の在原業平の歌、「ちはやふる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは」の意味を問われて、「知らない」と本当のことが言えずに、つい見栄を張り、デタラメの解釈をでっち上げる噺だ。追い詰められた隠居が必死になってデタラメ話を繰り出す、その悪あがきがとても面白い。
当時、つまり江戸中期から明治にかけての人々、いわゆる庶民、彼らは、今の庶民である我々よりも、遙かに百人一首に詳しかった。現代と比べると、テレビも映画もケータイもない、パソコンもない正月は、百人一首がとても楽しい娯楽だったのだろう。そんな時代に成立した落語「千早振る」は、聞き手(聴衆、客)が在原業平の歌を知っていて、その解釈も了解している、それが常識になっている、という前提の噺なので、元の業平の歌やその解釈を知らなければ、面白味がわかりづらい。
こういう噺の場合、隠居の心理だとか、八五郎の思惑とか、サゲの分析など、あれこれ解説するのは無意味で退屈な蛇足だが、業平の歌の解釈は、当時の庶民同様のレベルで、知っておきたい、と思うし、噺を聞かせる方、つまり噺家は、そのあたりを説明したい、という気持ちになるだろう。現に、マクラのところで、基礎知識をさり気なく教えてくれたりする噺家も多い。
と、いうような思いがあって、それぞれの作品について、「余計なことかも知れませんが、これを知っている方が、楽しめるかも」というようなことを、書いておく。
なにしろ、昭和二十年代、つまり「戦後」の真っ直中に書かれた作品だ。携帯電話やパソコンはおろか、固定電話も一般の家庭では珍しかった時代だ。テレビは高嶺の花の貴重品だった。一万円札はまだなかった。高速道路もない、新幹線もない、そんな時代だ。もちろん、俺もまだ生まれてはいなかった。俺は、坂口安吾が亡くなった翌年、「戦後ではない」ことになった直後に生まれた。だから、物心が付いたときには、「戦後」の雰囲気があちこちにあり、後年、坂口安吾の作品を読んだ時も、時代の空気を漠然と想像することはできた。だが、今の若い人には、もしかしたらチンプンカンプンかもしれない、ということがぼんやりと気になる。
よく言われることだが、日本の風景は、あるいは日本の社会は、東京オリンピックを境に激変した。坂口安吾が生き、作品を残した時代は、その東京オリンピックすらが、まだ夢物語だった時代なのだ。今の我々が読むと、実感が湧かず「?」と感じる部分も多々ある。そこがまた面白いし、当時の日本の雰囲気を生き生きと感じさせてくれる部分でもあるけれど、そのあたりを、「?」のままで通り過ぎるのは、あまりに惜しい。
蛇足の危険を感じつつ、少しばかりの知識を前以て書き留める由縁である。
なお、作品を読む前に、これらの解説を読んでも、味読の妨げにならないように留意した。脚注を、前以てまとめて読むつもりで読んでいただき、作品を味わう役に立てたら、非常に嬉しい。
東 直己