目次
コロメアのドンジュアン
再兵役
月夜
毛皮のヴィーナス 決定版
解説 西成彦
前書きなど
レオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホの作品は、従来、日本でどのように読まれてきたのだろうか。母方の姓を受け継いだ「マゾッホ」の名が、「マゾヒズム」という呼称のもとになったように、彼は、私生活においても、その作品においても、ひとしく「マゾヒズム」を具現する作家と見做されてきた。なるほどそのこと自体は、かならずしも見当はずれとはいえない。ただし、その「マゾ」とは通俗的に理解された表象であって、その代表作と目される『毛皮のヴィーナス』にしても、まさにキワモノ小説の扱いを受けていた。その「マゾヒズム」を思想的に定位したドゥルーズの評論をもってして、はじめてマゾッホの作品もその意味が十全に明らかになったが、しかし、それを敷衍しつつ日本語で読みすすめるに足る翻訳は、まだ日の目をみていなかった。
他方で、マゾッホの多くの作品は、彼の故郷であったオーストリア領ガリツィア、現在はポーランド東南部からウクライナ西部にかけてひろがっている、この地方の自然、風土、社会を主題にしている。そうした作品は、かつてわずかながら日本語に訳されもしたが、ドイツ系、ポーランド系、ウクライナ系、ユダヤ系など、さまざまなエスニシティが葛藤をはらみつつ共生する、複数の言語、宗教を擁するこの地域の特性を紹介するには、十分とはいえなかった。そうした出自をもちながら、啓蒙主義者を自任し、かつみずから「マゾヒスト」であったという彼が、どのような思想的位相をしめていたのかは、あらためて考えなければならない問題ではあるだろう。その意味では、「エロス」、「フォークロア」、「カルト」の三巻からなる『ザッハー=マゾッホ集成』は、多岐にわたる詳細な注解も相俟って、その作品の文化史的、思想史的な理解をも可能にするものと自負している。